ドナトロジー(ドーナツ学)への寄与

『失われたドーナツの穴を求めて』(2017年、さいはて社)という奇妙な本がある。

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プルーストの『失われた時を求めて』にかけて洒落ているのだろうが、まあ語呂が悪すぎる。

「とき」に相当する箇所に「どーなつのあな」を充てる力業には、むしろすがすがしさえ感じる。

 

装丁をごらんいただくと分かるが、これが凡百の「失われた~」パロディ本のひとつでないことは容易に見てとれる。

私もいざ本を開いて奥田太郎氏の「第0穴」を読んだところ、その直感はいよいよ確かなものとなった。

 

 タイトルに冠された「失われた」とは、端的に言うと「問いが失われた」ということであり、問われるべきものが問われていない「忘却」の状態を指摘している。これは、長い哲学の歴史において真正面から「存在」が問われてこなかったことを嗅ぎつけてしつこく問い続けたハイデガーの指摘、すなわち「存在忘却」にも相当する偉業といえよう。
 
ドーナツに穴があるのは当たり前
あるものがあるのは当たり前
 
この「当たり前」をとりはずして、「穴」や「ある」について問うことがいかに難しいかを示すのは、哲学者の面目躍如といったところだろう。 
 
この著作は、ただ読むだけのものではない。読者の専門とする分野からドーナツの穴の謎についてアプローチする「ドーナトロジー(ドーナツ学)」への招待状にもなっているのだ。そこで私も自分なりの寄与をせずにはいられなくなったのである。
 
***
 
私の専門はこの際おいておこう。
どうしても書きたくなったのは、日本におけるドーナツ史のことだ。『失われた~』では、英国と中国における歴史学的アプローチがとられているが、わが国におけるドーナツ史も取りあげずには済むまい。
 

さて、ドーナツというものは戦後にアメリカ文化と共に入ってきた…多くの方はそう思われはしまいか。

ところが「小麦で作った生地を油で揚げた」程度のものを「無かった」と強弁する方が不自然であろう。

ありそうでなさそうで、やっぱりある。そんな「ドーナツ型菓子」について、私の知るいくつかの説を紹介しよう。

 

1.聖一国師伝承説

まず、鎌倉時代臨済僧である円爾(えんに:1202-1280)を外すわけにはいくまい。後に天皇より国師号を贈られ「聖一国師」となる、名僧中の名僧である。

 

円爾の生まれるころ、平清盛(1118-1180)によって始められた日宋貿易が隆盛を極めていた。北方の騎馬民族に圧迫された中華王朝は、南部へと押し込められており、現実から目を背けるような退廃的な文化や超然的な文化が栄えていた。その濃密な芳醇な文明から、武家社会に移ろうとする日本社会は強烈な影響を受けたのである。日宋貿易は、遣唐使以来の本格的な日中貿易であり、目の覚めるような成果を生み出した。

 

そこで活躍したのが僧侶である。

当時の「僧侶」という存在は、仏典・漢籍という中華圏共通の文化を理解し、必然的に中国語も読み書きできるゆえに学者であるだけでなくいわば外交官でもあり、商品や文化を厳選して取り扱う目利きでもあった。

円爾もそうした優秀な知識人の一人であり、中国最先端の文化である禅宗を学んで意気揚々と博多に帰ってきたのだった。

 

だが円爾の持ち帰った叡智は禅だけではなかった。

たとえば明治初期に来日したド・ロ神父は、長崎の小島で貧しい農民達にパスタ作りを教えながらキリスト教も伝えたのだが(『西麺伝来記』)、円爾もまた「粉もの」というジャンルを持ち帰って、禅の教えとともに広めたのだ。

 

円爾の伝えたものそれはすなわち、うどん、そば、まんじゅうである。  

 (福岡市博多区承天寺」にある石碑。御饅頭所(右)、饂飩蕎麦発祥之地(左))

 

小麦などの「粉をひく」という食文化は円爾ら禅僧とともに博多に入ってきた。ゆえに、小麦から作られるドーナツのようなものも入ってきてもおかしくないという主張がなされるのも無理からぬ話である。

しかし、ラーメンについてはようやく江戸になって水戸光圀公が始めて食べたと言われるところをみると、粉を卵で「つなぐ」という発想はまだ無かったはずだ。

それに、卵のごとく生殖に由来するような、あるいは命のカプセルをそのまま頂くような殺生な食物は、仏教文化圏ではあまり好まれまい。

ゆえに、ドーナツの存在については疑問が残る…というのが常識的な推論といえる。

 

ところが、禅の元祖達磨大師から数えて六代目にあたる中国の高僧、六祖慧能(えのう)の日常を伝えた『六師正伝』(作者不詳)には、ドーナトロジストとして決して見逃せない記述がある。

慧能が食事中に弟子達を挑発するように次のように言ったという、

「食蓮而勿食蓮孔」(レンコンの穴を食う事無くレンコンを食え)。

 

 

無理難題である。

しかしこれこそまさに「公案」とよばれるものである。すなわち、あえて非常識な問いに取り組む事によって常識的な論理にとらわれた自我を解放し、悟りへと導く装置なのだ。

慧能の後継者として七祖に選ばれたのは馬祖道一(ばそどういつ:709-788)だが、実はこのとき食卓を共にしていた若い僧侶こそ馬祖であった。そしてこの「食蓮」の公案によって、禅の道を成就するに至ったとも言われる。

その馬祖が、六祖慧能の軽妙な公案になぞらえて作らせたのが「六祖導道」あるいは「六道(六導)」という菓子である。

 

この菓子は慧能を祀るものであったが、しだいに他の禅師を祀る際にも捧げられるものとして受け入れられていった。しかしそののちかの臨済禅師がこれを廃止してしまったという。

「六道」を以て禅師を祀り、あるいはこれを食すなどすれば悟りに近づけると考えて禅の道を根本から誤る者が出始めたからである。

そのため臨済は「六道」を「無道」と改めて戒めとし、以後作ることを厳しく禁じてしまった。ゆえに本来の製法や形状の実際は闇の中へと消えてしまったのだ。

 

ところが消えたと思われた「六道」にはもう一つの運命があった。実は留学僧を介して、その存在と禁止令がほぼ同時に日本に伝わっていたのである。祖先崇拝を大事にする日本では禅師を祀る菓子はどうしても作りたい。だが作ってはいけない。だから「どうにもしようがない」のである。その歯がゆさから、「無道」にかけてこの菓子「どうなし」と呼び変えて密かに再現しようとした一派がいるらしいが、詳しくは分かっていない。

 

しかし話はこれで終わりではなかった。

 

中国から伝来したありがたくも実体のわからない菓子に商機ありと考えたしたたかな博多商人がいたのだ。名を御簾堂夏吉(みすどうなつきち:生没年不詳)という。

 

夏吉は博多湾から引かれた石条堀(せきじょうぼり:いまの博多区石城町3丁目付近か)の海運業者とされる。もとは百姓の生まれだが、その才覚を見抜いた博多の豪商神谷宗寿(かみやそうじゅ)のもとで中国貿易のイロハを学んだことが分かっている。

宗寿のツテで臨済宗聖福寺の老僧談匀(だんきん)禅師にも師事するなど、耳ざとい中国通として評判の高い人物だった。壮年に入って京都の御簾堂家に婿入りしているが、生活の苦しい貴族が商人の財力を見込んで末娘などの婿にむかえることはしばしば見られたことである。

 

当時、栄西禅師が聖福寺に植えた木の葉から煮出す汁を僧侶と共に飲んでいたのだが、ありがたいものとはいえこれが非常に苦いのだった。

 

夏吉はつねづねこのありがたくも苦い飲み物に合わせる絶妙な菓子がないか思案していた。そんな菓子があれば禅とともに大ブームになるに違いないと確信していたが、生半可な菓子では自分だけでなく宗寿や談匀の顔がつぶれることも分かっていた。

 

そこで聞いたのが「どうなし」の話である。

 これを日本で人気の高い馬祖に由来するありがたい菓子の再現とし、例の木の苦汁とあわせて最先端の中国文化を味わえるならば、まず博多での流行は必定。

さらには『興禅護国論』によって幕府の後ろ盾を得た栄西禅師を頼れば、まずは鎌倉の将軍に、その後あわよくば帝に献上する名誉も得られるのではないか。

夏吉の妄想は高まっていた。

 

もちろん栄西が中国から持ち帰って種を蒔いたというこの木こそ茶の木であり、僧たちが飲んでいた汁とはまさに「茶」であった。

栄西は帰国してまず福岡の背振山(せふりやま)と聖福寺に茶を植えたのであり(『喫茶養生記』)、法然の論敵としても有名な明恵(みょうえ)がこの原木を京都栂尾に移植したことから京都でも大いに茶が流行したという。

これが後の「茶の湯」の源流となったのは言うまでもなかろう。

 

余談だが、だれもが飲みやすいものが「甲」の、すなわち一番の飲み物ならば、茶はもともと飲み物としてはどこか難があるような「乙」の、すなわち二番手に落ちる物であった。

舌の肥えた高僧たちがしぶしぶ飲んで「乙也。」と苦々しく言っているのを見た出入りの商人達が、これを褒め言葉と勘違いして自分たちの隠れた文化にしていったという。後にその伝統の中で育った堺の商人千利休が大成した茶の湯にも当然「乙」の精神が活かされている。読者の中には「乙」こそが日本の誇る文化だと考える方も多いだろうが、もとはといえば商人の勘違いだったのである。

  

「どうなし」に戻ろう。

新しもの好きの夏吉は、博多に中国から入ってきたばかりの「饅頭(マントウ、まんじう)」なる菓子に目を付け、これを蓮根を模した形に作って穴を開けようと考えた。「食蓮」の故事にあやかったのである。

いくら蓮根状に作っても穴がつぶれてしまうため、中央にひとつだけ穴を残すことになったらしい。最終的に、竹筒に油を塗ってそこに饅頭生地を巻き付け、その棒状のものを蒸しあげることで完成した。

今から見ると何のことはない。早い話が小麦の生地でつくった竹輪(ちくわ)である。

  

夏吉はできあがりを筒から外して切り分け、商売の成功と僧たちの仏道成就を願って、「道成し(どうなし)」と名付けたそうである。このとき切り分けられていく「道成し」を見た談匀は、表面が菓子で中身は空っぽであることをいたく気に入り、「無胴哉。」(なるほど「胴が無い」=胴無しだな!)と言ってにわかに爆笑してしまったので腰をしたたか痛めたという。(『安国山聖福寺史』巻十二「談匀」)。

 

馬祖が六祖慧能公案による導きに感謝して「六道」と名付けた菓子が、一度は厳しく禁じられながらも時空を超えてまさに禅のために博多の地でよみがえったのは歴史の偶然か、はたまた必然であろうか。

しかし運命というものはひとつ与えてはひとつ奪うらしい。不幸にも談匀は腰を痛めたあとで寝たきりになって間もなく没し、夏吉もこれからというときに海外からの流行病に倒れ、談匀のあとを追ったのである。

 

二人の粋人が消えたあとに残されたのは、竹筒が刺さった饅頭の列である。

再現品とはいえ、もとは禁制の品。聖福寺も夏吉の関係者も、互いに変な空気になるのを恐れてこの件は黙殺されたそうである。

こうして帝への献上どころか博多での普及も叶わないまま終わった。「道成し」は何も成すことのないまま、歴史の中に切り開いた道を再び無くしてしまったのである。

 

 
***
 

夏吉の性急な試作品をドーナツと呼べるか私も心許ない。しかし「食えない穴をもった菓子」という「ドーナツ性」を宿している以上、これはドーナツのイデアを分有したドーナツ的なるものと言わざるを得なのではなかろうか。

 

最後にドーナツ学普及の緊急性を痛感させられた出来事を紹介したい。

10年ほど前、今はほぼ駐車場になっている旧聖福寺領の遺構の再開発で「談匀道成」と書かれたおびただしい数の木箱が掘り出されたことを福岡の地方紙が報じたが(「西日本新聞」2007年2月30日付夕刊)、翌日私が知ってすぐ詳細を問い合わせた時には、土地所有者によってすべて廃棄された後であった。

それでもできるだけ詳しく聞いたところによると、木箱の中にはカタカナでドウナシと書かれたものもあり、さらに当時にも「シ」と「ツ」を書き分けられない者がいたらしく「ドウナツ」と書かれたものもあったという。

 

もしもこの木箱が残っていれば、もちろん発音上・表記上の偶然にすぎないにしても「ドーナツ」の元祖は13世紀の博多ということになったかもしれない。

ドーナツ学への関心が高ければ、これらの木箱が失われることもなかったであろう。

(続く)

「運命・量子・交流」

●「運命ってあるのかな?」

 

  • 「どうして急に?」

 

●「いや、きっと大したことじゃないんだけど、ふと、さっき耳にして気になってるんだ。運命なんて全然信じてないんだけど、でも運命っていう音?というか、その存在が頭にはいってしまったのがさ、なんかくやしいけど1ミリぐらい運命っぽい気がして。」

 

  • 「ははあ、そんなことを聞かされる僕も運命とやらにまきこもうってわけだ。いや、それは歓迎するよ、だって僕は運命っていうものが今とても大好きなんだ。」

 

●「はあ、大好きになるようなものかねぇ。運命なんて、理由抜きに人を納得しようとしたり、つじつまを合わせなきゃいけないなんてときに持ち出されるものじゃないか。そんなもの人を甘やかす幻想だよ。僕は運命なんか信じたくないし、一言も口に出さないでふだん生きてるよ。」

●「まあ信じたい人もいるし、仮に運命が世界のどっかに勝手に存在してくれていいけど、僕は関わりたくないね。」

 

  • 「おや、ずいぶんだね。でも実は僕だって同じ気持ちなんだ。ただね、関わりたくないと思ってるのに関わってくるんだよ、あの運命の野郎は。
    こないだなんて楽勝で合格できるはずの試験に落ちちゃってさ、死にそうな思いでトボトボあるいてたら、おばさんに声かけられて世間話さ。」
  • 「でもどうやら娘さんも同じ試験を受けてたことが分かってね、今度一緒にお茶でも飲みながら勉強してやって下さいねー、なんて頼まれちゃって。いやーまいったね。自分なりに精一杯やってたのに悪夢みたいなことが起きたかと思えば、同じ日にうら若き清らかな女性との出会いが約束されたんだぜ?」

 

●「清らかかどうかは知らないけど、捨てる神あれば拾う神ありってやつか。ただそんなものは全部因果関係で決まってるんだし、それが今僕の言ったやつだよ、理由の説明を放棄した運命論者ってやつ。」

 

  • 「君がねたんで言ってるんじゃないと思って聞いてるけどね、僕は自分の力を超えた何かを感じざるを得ないんだ。当然因果関係はあらゆるところに張り巡らされているけど、全部それで説明できると思ってはいないよ。
    ちなみにおば様の姿から言うと、娘さんは美形に違いないね。これは因果関係だな。」

 

●「おや、因果を超えた容姿かもしれないぜ。」

 

  • 「よせよ馬鹿。我々こそ他人様のことは決して言えないだろ?しかし顔や体や、とにかく物理的な面に関しては大体因果関係で説明できそうだけど、気持ちや試験結果なんてのはどうもそんな気はしないなぁ。」

 

●「おいおい、21世紀に生まれておいてそれかい?気持ちだって我々の身体で起こってるんだから物理的に説明できるはずだよ。試験だってさ、この頭ン中に詰まってる脳味噌の話だろう?きっと電気信号かなんかが法則に従って動いてるんだから因果関係の外の話じゃないはずだよ。」

 

  • 「なんだか最後は推測口調じゃないか。まあ、専門知識が無いから及び腰なのはわかるよ。しかし科学を持ち出すなら、量子の世界の話をしなきゃ。」
  • 「君が今言った電気つまり運動してる電子が量子の良い例だけど、量子ってのは小さすぎて観測できないんだ。なんていうか、量子がどんな状態か調べるために偵察兵を送ると、到着した偵察兵はあまりに小さい量子をふっとばしちゃうんだ。だから観測結果はいつも不正確なんだとさ。」
  • 「因果をさかのぼると、結局不正確な観測に行き着いて自分の首をしめるってことらしい。まあ、数年前に大学の講義で聴いたことだから自信はないんだが。」

 

●「その説明自体よくわからないなぁ。でも科学を出してきたって僕はびくともしないよ。量子だって、さらにその中にまだまだ無限に小さな世界があるかもしれないだろ?結局の所観測できるかどうかなんてどうでもよくて、こうやって前へ進もうと思っただけで歩けてることの方が大事なのさ。」

 

  • 「運命は認めないのに、歩けることについては何も思わないの?だって変だぜ、仕事に行こうって思うだけで駅まで行けるなんて。SFの世界の乗り物みたいだよ、体ってやつは。」

 

●「まあその話は別のときにでもやろう。しかし仕事に行きたくて駅に着けるなら、それは因果には違いないんだよ。たしかにその過程で不思議なところもあるがね。」

 

  • 「因果の過程に説明できないブラックボックスがはさまってたら、それはもう因果関係として成立しないんじゃないか?」

 

●「んー、僕の言ってることはそういいうことじゃなくて、複雑すぎて分からないってことだよ。だって君が一歩足を進めるその一瞬にだって、君の体には蟹座アルファ星からの重力がかかって数万年前のどこかの超新星の爆発した光を浴びてるんだから。しかも隕石が衝突したり心臓が急にとまったりする確率をくぐり抜けてる奇跡的行動なんだよ。」

 

  • 「なんだか照れるな。まぁ、考え出したらキリがないや。でも僕のどんな行動にも昔大好きだったあの子の何かが100兆分の1でも関わってると思うとがぜんやる気が出てきたよ、ありがとう。これはもう宇宙レベルで見ると付き合ってるのと変わらないかもしれない。」

 

●「そいつは素敵なファンタジーだが、目の前の君と話してることがとてつもなく濃厚な事に思えるから一長一短かもね。しかし僕もそれはよく分かるよ。」

 

  • 「元気が出たついでに頭も冴えてきた。というのも、何万光年も離れた星や、遥か過去に会えなくなった人でも直接または間接的に僕に影響するってことだよね。うちのじいちゃんの写真を見てもなんだか空しいけど、これまでじいちゃんが何万立方キロと呼吸してきた空気を少しは共有してるってことかい?」
  • 「あ、ということは全然関係ない他人についても同じか。それはなんかイヤだな。マスクしよ。」
  • 「でも僕は驚くほど遥か遠い星や他人のかけらやで出来てるかも知れないな。逆に言うと、君は少し僕なんだ。目の前にいるし。」

 

●「うーん、それは僕がいつも考えていたことに近いかもしれない。この際だから話そう。」

●「君に触れられる、ってことはあまり想像したくないが、君の姿はさっきから僕の網膜に写ってる。声は鼓膜や内臓をふるわせているし、空気はおたがいの体内を行ったり来たりしてる。小学生でもわかるだろう。」

●「けれど不思議なんだ。体の中身レベルで君との交流が起こってるらしいんだが、こうしたことに誰かが文句をいうのを聞いたことが無い。」

 

  • 「ははあ、いよいよ本性を現したな。しかし何とも思ってくれてなくて良かった。僕はてっきり人と肌で触れ合うなんか低レベルの事で、これからは直接臓器交流の時代だなんて言うんじゃないかと思ったから。」

 

●「まあ、目の付け所は悪くないね。僕が言いたいのは、自分の体は不可侵―もちろん例外はあるがね―だと思っているが、器官レベルではノーガード状態であって、それがどうしようもない事実だということ。そしてそれを誰も不思議に思ってないってことだ。これは一体どういうことだ。」

●「だって、例えばあそこに素敵なお姉さんがいるだろ?ほら、一瞬こっちをみた!僕は悲しいことにあの人と今後一切関わらないと思うが、今まさにあの人の目の中の網膜に入ったみたなもんだ。なんならその先は電気信号になって視神経を伝って脳の中に入って映像になったね。こんなヤバいことが起きてるんだぜ?」

 

  • 「そいつはワクワクする想像だろうけど、君はそこにいるじゃないか。まあせいぜい君にあたって反射した光が彼女の目に入ったとはいえるだろう。けど、入ったのは光であって君じゃない」

 

●「そこが面白いところなんだよ。最終的に僕から反射されたなら、それは間違いなく僕だって主張できないかな。君だって僕から反射された光や音の波しか感じてないだろう?というか他に何を感じてるって言うんだい?それはこれまでもそうだったし、そしてこれからもずっとそうだ。」

 

  • 「なんか途中までは自分がキモいかもと思ったけど全然ちがったよ。でも物質的というか科学的な説明では君の言う通りなんだけど、なんで違和感があるんだろうな。でも君の指摘は、それはそれでもっともだ。」
  • 「さて一度トイレに失礼するよ、あとでコーヒーかなんか頼もう。」

「時間」ですよ

 

3月、卒業シーズンだ。

僕も縁のあった学校で卒業式や謝恩会というものに出席した。

 実は今日もそうだった。

 

こういう日は、何か書かなければいけない気持ちになってしまう。

人は、と言って差し支えないと思うが、とにかくいまこの時間を忘れたくないという欲望に駆られてどうしようも無くなることがある。

そんなとき、まあ学生ならば気の合う友と飽きるまで過ごせばいい。

しかし僕は幸福な家庭をガラス越しに見つめる庭師だ、一人で書こう。

 

昼から高校の謝恩会に行った。

いつもの制服を着た生徒たちがいた。いるのはあたりまえだが、なんだか違って見えた。

 

大人になったとか、そういうことじゃない。

おそらくこれは祭りの日に同級生に会った時のような感覚に近い。

といってもそれはいつもとちがう特別な服や持ち物で作れるような感覚ではないと思う。

 

じゃぁ何が違うか?

自分が卒業生になったつもりで考えてみよう。

卒業の日。たとえば校舎の時計は、自分がこれまで飽き飽きするほど見てきた物であると同時にこれからもしかしたら二度と見ることがない物として現れてくる。

つまりは、「少なくとも今はまだこれまでと同じように目の前にある」のだが、同時に「今立ち去ればもう目の前から消える。または、これまでのような関係において再び出会われない(ありきたりのものではなく、懐かしいものとして見てしまう)」ものなのだ。

クラスメイトだって同じだ。どんなつまらない時間でも一緒だったのに、もしかしたらもう二度と会わないかも知れない。

渡り廊下とか、校庭の砂粒ひとつとっても感情があふれ出る直前にまで達しそうになる。窓からみえる変な木や通学路でさえもそうだ。

見るもの触れるものみなエクスタシー。

フェティシズム(物神崇拝)を極めたマスターフェティシストの境地である。

 

ということはつまり、「今」というものがとてつもなく重要になる。

今見ておかなければ、今声をかけなければ、無数の情景とか人生とかに対してなんだか取り返しのつかないことになるかもしれない。

 

日々の暮らしを支配する、あの24時間の平等な時間とはまた違う時間がここにはある。

あの人ともう会わないかも知れない、ここにはきっと二度と来られない、来たとしても意味がかわってしまっている…そんな重大すぎる「今」における時間とはどんなものだろうか。

 

今、たとえば2017年3月21日の13時12分27秒がもう二度と来ないことは誰でも知っているし、そんなものはまぁはっきりいってどうでもいい。

数字が同じように並ばないというだけだ。

 

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しかし、自分が18年間(高校生のつもり)生きてきて、同じようにこれまで生きてきて少なくとも3年間を共有した存在がいて、いままさにここで自分の人生からほとんど失われつつあること、

そしてその両方の事実が不可逆で代えの利かないものであることは、日付の数字が二度と同じものにならないことよりも意味不明なぐらい重大なのだ。

 

ハイデガーという人の本『存在と時間』では、なんだかとらえどころのない「存在」というものがどうやら時間を通して理解されるという話をしているのだが(適当)、裏からいえば、やはり「時間」というものも―当然知ってるつもりではあるのだが実は目の前のかけがえのない「存在」を通してしか経験されないとも言える。

だって、時計をみたり、カップ麺が出来るまで待てるからといって時間が「分かる」なんておかしな話だ。

そんなもんじゃなくて、僕がひとりの生徒と話すというそれだけで、というより一瞬の目線の内に、本当の時間というものをいやおうなく理解させる力がある。

 

生徒も、先生も、保護者も、僕も、この祝祭によって自分の人生(これまでの、ではなくこれからの、も含めた人生の物語)における「時間そのもの」を相互に取り戻させる。

時計やスケジュール帳によって切り刻まれていない時間そのものを。

単なる数字の並びとしてではなく、本当に繰り返すことのできない私とあなたが共に存在するこの時間を。

しかも!それがすばらしいからそうしたわけではなく、なんだかそうなってしまうのだ。

卒業式というものの中身は、そのような時間の復活祭とでもいうべき奇跡的な祝祭なのだ。

 

ところがまた。

この祝祭の参加者たちは、その同じ時間の力によって、苦しめられる。

卒業したら次は何々、いついつまでにあれ何とか、何歳を過ぎるとどうこう…

いまここで自分のかけがえのなさと対峙するとき、人はいとも簡単にあの忌まわしい「人生設計」に陥る。

 

(正直に言うと、そのような計画の一里塚として卒業式をとらえている人の方がほとんどだということは分かっている。あるいは苦痛でしかない場合もあることを。)

 

だが二度と繰り返せない生を送るというその一回性は、他者に先んじるとか、失敗しないとかいう「設計」によって克服できはしない。

また、取り返しの付かない失敗をしても、生の一回性が損なわれることは決してない。ヤセ我慢だけど、そう言ってしまおう。

 

ところがふつうは、生の一回性がヘビーすぎるが故に、人生設計をすれば安心なんだと思うようになる。あるいは悲劇的なことだが、人生を設計したうえで失敗して苦しみを背負ってしまう。

 

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しかし、過去から未来へ流れる数直線的な時間の中で自分のことをどう位置づけたとしても、そんなものをふっとばしてチャラにしてくれるような全く別の時間、つまりお行儀良く並んでいない時間そのものの爆発みたいなのが突然やってくることもある。そのことは信じていいと思う。

 

僕レベルになると、毎年の卒業式だけでなく、いろいろな行事で人々の人生時間の爆発をあびてむちゃくちゃにされにいくのである。

ただし同級生の結婚式だけはもうそろそろきついかもね^^

って書こうとしたら、だいたい終わってた。

子どもを恐れよ、そして武装解除に哲学を

先月、今月と、いわゆる「子ども」がこれまたいわゆる「哲学」をする場に行ってきた。「子ども」たちは、みな小学生だ。

 

去年同じような機会があったが、子どもでもここまで考えられるのか、ということに驚いた。

と同時に、「子どもの賢さに大人が驚く」という予定調和を見た気にもなった。

テレビドラマでも子役の名演技に大人が感心している。

だがこのような驚きや感心は、そもそも大人が子どもをあなどっているから成立するのだ。ここに子どもの哲学の本質はないだろう。

「頑張ってね」とおなじくらい空虚なノリで「すごいね」と言ってしまうが、それだけで終わってしまうのも違う気がする。

 

哲学は、子どもにとって、褒められるツールに成り下がるべきではないと思う。

哲学は一般に大人でも難しいこととされているので、それを見抜いた子どもにとっては格好の褒められツールになる危険性が高い。

だからこそ、それをうまいこと防止しないといけない。

そうして残る哲学とは、何をすることなのだろうか。

 

子どもの話だからこの際言っておくと、僕は基本的に子どもが恐ろしい。

彼らは遠慮がなく、がさつで、下品である。正直であると同時に、平気で嘘を隠蔽し、「純粋さ」というイメージを武器にして無罪さえ装う。

 

嫌いじゃないけど、手強いのだ。

 

それに制限がなければいつまでも遊び続けるし、疲れるということをしらない。

もちろん勉強ばかりしている子もいるが、それは褒められたいから(あるいは罰をおそれるから)だ。実際に必死で中学受験の勉強をしている子どもを見ていると、その子らは親から褒められることに必死であり、あるいはその愛を失うまいと必死である。

一方、「こうすれば大人は褒めてくれる、チョロいぜ」、ということも知っている。

悪魔である。

 

ともかく、子どもほど純粋に快と苦に忠実で、その真っ只中で生きている存在はない。

だからこそ大人は子どもを自制心がなく、未熟だと考える。

 

ところが、むしろ逆なのだ。

大人は、未熟さを克服した子どもではなく、いわば家畜化された子どもである。すました大人も一皮むけば恐るべき子どもであることは、自分を振り返れば誰もが分かることだろう。

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大人になって子どもと哲学をすると、そんな問題を思い出させてくれる。

だから「こんな非常識なこと、子どもの前で言っていいんだろうか」という意見は、子どもを脅かすどころか、かえって安心させたり感心させたりする可能性だってある。

「あの犬、狼のような意見を言ったぞ、やるなぁ」というわけだ。

そんなことは教室では起きない。家庭でも起きない。大人は子どもを大人化することに必死だからだ。

悪いことではない。むしろ相当な努力を要する大変な仕事だ。

けれど、大人って本当に正しいの?っていう疑いの声を、子ども同士で出せる場所もないと不公平だ。そんなときに、あらゆることを疑って探究できる哲学が必要になる。

 

そんな場で大人が何かやれるとすれば、家庭や教室とは違う振る舞いをすること、たとえば「大人であることに縛られてないぜ、ヘイ」と示すことだろうと思う。

子どもではないが大人でもない変な存在、中間者のようになって、奴らを混乱させるのだ。それなら楽しそうだし、楽しそうだと思える時点でちょっと子ども的になってるから合格っぽい感じがする。

 

大人の振る舞いがそのようなものでありうるとして、それと同時に強調せねばならないことがある。

当たり前すぎて取り立てて言う人は少ない気がするが、それは、子ども自身もまたつねに大人であることから逃れられないということだ。

冒頭に挙げたように、子どもは既に大人化しつつあって、もうそれは防ぎようがないのだ。

だから、哲学は、子どもが真性に「こども」になれる場でもある。

「こども」であることは、子どもにとっても既に失われてしまっているのだと主張したい。

だから大人へのおべっかから解放され、家族や友人との社会生活をも休止できるような…事実問題そんなことが不可能だとしても、そんな気になれるような場を作ることが重要だろう。哲学する場は、そのようなものになるべきだ。

 

だから、ただへりくだって子どもに近づくだけでは不十分かもしれない。それは僕にはできそうにないすばらしい事だ。じゃあ何ができるかというと、子どもを子どもでなくしている何かに対して注意深くなるような、そんな見張り役程度ではないか。

…なんて難しく考えてるうちはまだまだ修行が足りないのだろう。

てつがくは かくせいざいより きもちいい

昨日、ありがたい一句をいただいた。
実際は句ではなかったのだが、ずっと五七五で渦巻いている。
「てつがくは かくせいざいより きもちいい」
 
哲学、というか「考えざるを得ないこと」には特有の苦しさがある。
僕の場合は、小学校低学年のときには「宇宙人につれていかれること」とならんで「母が母ではないかもしれない」(身近な人が本当に本物か)という奇妙な妄想であり、次に中学年になるとそれらに「死」が加わって、最後に引っ越しをして中学生から「見知った場所や友人が根こそぎ無くなる」という事が決定的となった。
 
こういうへんてこな問題は、きまって夜やってくるので、僕は寝るのが苦手だった。
当時の自分にとって寝るいうのはかなりの努力を要するものであって、一度寝たとしても悪夢によって眠りは浅くされた。
世の中の子どもの悩みは、「そんな悩みは、たくさん遊んでぐっすり眠ればきっと忘れるよ」と語られることが多く、そこでは循環論証が無責任に放置されている。
 
いつも体をどっちに向ければ早く寝れるか試していたが、妹なんかはとっくに寝てしまっていて、その単純さを見るにつけ自分以外はロボットじゃないかと思うこともあった。
いつだったか、なぜすぐ眠れるのか聞いたのだが、「私は妖精さんに守ってもらっているから」ということらしく、眠りに際して彼女なりの「まじない」があったのだろう。
 
しばらく後、中学生ぐらいになってから「あのときの妖精さんってどんなのやった?」と確認したら「お兄ちゃんが信じるか試しただけ」という薄情というか無情な答えが返ってきて、やっぱ他人はロボットだと思うと同時に、自分もロボットじゃないか試されていたのかと今になって思う。
嗚呼、We live in ロボットワールド。

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他人は時々ロボットに見えるが、自分にとってリアルな苦しみたちは決して裏切らずに苦しみでありつづける。だからある意味で他人よりも信頼できてしまう。
僕としては他人のように突然ロボットに見えて笑うしかなくなる存在というのは意外と救いなのだが、ずっと居座り続ける苦しみはどうしようもなくリアルでありつづけるわけで、救いのない泥沼だと分かってはいるが見て見ぬふりするのは中々難しいのだ。
 
僕のようにふらふらした人間は、こういった苦しみ、例えば死に向き合って苦しみ抜いた一握りの強い本物の人間だけが「死」語る権利があると考えてしまう。
 
それで思い出したのだが、20歳ぐらいのとき哲学好きの人とネットで知り合った。僕は大学の哲学科に行ってて、彼は薬学系の大学にいた。めちゃくちゃ明るくて、コミュ力の化け者みたいな奴で、一時期テレクラばっかりやってたと笑っていた。まぁいつもは馬鹿な話をしてたけど、ふと厭世的な瞬間も見せるところもまた魅力だった。
そのいつもの馬鹿話の中で、高校まで兵庫にいたこと、阪神淡路大震災で大切な人を失ったことをさらっと言った。
聞き間違いだと思ったけれど、うろたえて急にへりくだった僕に対して、彼は怒った。そのことは良くおぼえている。
 
それを思い出すと、やっぱり哲学は平等であるべき、というか哲学するときは平等になれるんなら素晴らしいなと思う。
特別な経験というのは結局、「一体なぜそれが(私にだけ)起こったのか」という、世界に対する驚きであって、それは震災だろうが、生だろうが、失恋だろうが、受験だろうが、障害だろうが、なぜそうなっているのかという驚きに支配されていることにおいてはみな平等な驚きメイトなのだ。僕だって誰だって同じなのだ。
 
 
突然だけどガウタマの話をしたい。ガウタマ・シッダールタという悩み抜いた修行者の話を。
彼は修行に関して「中道」というすごく良いことを言っている(倫理の授業でやった)。それはどういうことかというと、
 
”めっちゃ頑張って苦しんだとき、あー修行したなって思うけど、いつの間にか苦しむことが目的になってきてさ。苦しまないと修行じゃないって思いはじめるんだよね。悟りが目的なのに苦しみが目的になるっていうか。
でも、自分を追い込まないで楽にしてれば修行なのかっていうと、それも違う気がしてさ。正しい修行ってなんだろうね…”

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ガウタマは人が生きるために他の命を奪わねばならないことや、老いや死が避けられないことなどに心の底から驚いて、うちのめされた人だ。
 
そのことが一体なんなのか考え続ける中で、最初は自分の体を痛めつけて「生」を否定することでこの問題から解放されようとした。
しかし一向に状況は改善されないどころか、自分を苦しめて満足する自分を発見して落胆する。だがこれ以外に何をすればいいのか?今まで通り、釈迦族の王子として快楽のうちに生きればいいのか?
 
どうやら「中道」というのは、苦と楽のどちらにも固執しないこと」らしい。これは苦と楽の折衷案に落ち着くことじゃなくて、どちらに固執することも拒みつづけるという結構ダイナミック&ハードな思想だ。ダイ&ハード!
哲学も「これが哲学だ!」って言えた瞬間死ぬ生き物なので、誰でも「なんかちがくね?」って常に言えないとウソくさい。その意味で哲学は、ブッダの「中道」つまり「~しなければ修行ではないと固執すること」への否定と似てる気がする。
 
もしも、王子の生活の中で感じた快楽と虚無を感じた上で王子の位と生活を捨てて修行するほど覚悟と経験がないと、ガウタマの言う本当の仏教は分からないよ…なんていわれたら、人生賭けて仏教やるぞ!って息巻いている僧侶志願者たちは真顔になって現地解散である。
哲学も、特別な経験を生き抜くことなしにやれないのだと言われたら、そこは抵抗したい。
 
哲学対話のときに、よく「先生だって答えをしらないんだから平等に話しましょう」なんていうけれど「先生だから答えを知っている」が偽なら、「親を亡くしたから苦しみを知っている」とか「家族が障害を持っているから障害について語れる」も偽であるかもしれない。違うとしたら、世界への驚きに或る仕方で射貫かれているかどうかであって、「一体それが何なのか実はわからなくて苦しい」という点ではきっと平等に語りうるのではないか。
学校ではつい「配慮」とか「安全」ということを考えてしまうけれど、変な配慮によって、驚きへの可能性や平等性が閉ざされてしまうのならそこにはもう哲学することは現れないかもしれない。
同時に、おそらく楽しさからも遠ざかってはならない。なぜなら、もし自分のなんらかの「(つらい)体験」を自主的に話すということがあり得るならば、そこは自己開示が強制される場でもなく、いわば「語り部」のように自分が特権的な地位を保証される場でもなく、単に自然と話したくなってしまう楽しい場だからだ。
言ってもいいし、言わなくてもいい。言ったからといって、全員がしんみりする必要はない。けど、してもいい。どっちやねん。
 
ファシリテーションというのは、否定の繰り返しだ。
これが正しいというのが基本的に無いから不安だし、面白い。
哲学することもそうだ。
 
なんて、こういう具合に昨日から小難しく考えているのだが、思考の空白ができるとすぐに「かくせいざいより きもちいい」という底抜けにアホかつモラルのかけらもないワードが浮かんでくる。
脳髄に刺さっているのだ。
だから意味もなく突然おかしくなる。
勘弁してほしい。

プレイバック哲学対話 2017/1/10

哲学対話をやってきた。

参加者がとりくむ問いは、「魚とふれあうってどういうこと?」

 

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(今回は「いらすとや」さんの画像を使わせてもらいました) 

 

メンバーは哲学科の教授、卒業生、院生、大学生1~3年というパワー系ラインナップ。

こういう人たちに好きに語らせたらとんでもないことになるという話。

 

このブログでは何回か繰り返すことになるが、哲学対話というのは要するにガチで話すこと。

「なんだ、そんなことか」と思うでしょうけど、それは半分間違い。

まずふつうの感覚をもった人間であれば、「魚とふれあうこと」についてガチで話そうとする意味がわからない。だからそれについて話すために「え…魚?ふれあう?」なんてことを考えるなんてはっきりいって時間の無駄だ。

そこで多くの人は、こういうときにかぎってまともな推論を行う。

「哲学ってやっぱり時間の無駄だ」

 

まぁ、そうかもしれない。でも、ちょっと振り返ってみたい。

 

上の問いが出た背景として、僕が姪をかかえて池の鯉にエサをやっていたときのことがあった。

鯉にエサをやるというのは面白くて、パンくずを投げると鯉がたくさんやってきてガポガポいいながら吸引していく。

パンが着水するやたちまち大きな口々に吸い込まれる様はコインを投げて賭け事をしているような気分を起こさせ、色とりどりの鱗が水面ちかくでキラリ、キラリとするうちに理性のバランスが危うくなる気さえした。姪ちゃん、おじさんはこんな気持だったんだ。

 

しかしふと、虚しくなる。パンを投げてるだけである。

でも、魚とふれあうってなんだろう。

姪も僕も、鯉を見てすごく満足していた。でも、触ってもいない。パンが尽きたら何をしていいか分からない。

「魚とふれあうってどういうこと?」

 

コガ「犬とかはわしゃわしゃーって触って可愛がれますけど、魚にそれやったらまず魚に害あるしこっちもヌルヌルになるだけですよね」

(以下、適当に再現しながらお送りします。事実とは異なる可能性が大です。)

 

テツコ(男)「魚との触れ合いで、僕、スキューバしたときのこと思い出したんすよ。海の中に魚のエサをもって潜るんですけど、めっちゃよってくるんですよ、魚。でも明らかにエサにしか行ってなくて、僕おいてけぼりっていうか。悲しかったっすね」

 

「すれ違いじゃん」「でもテツコ海似合うわ」

 

コシ「僕思ったんですけど、こっちが可愛がりたいとか、満足するだけじゃダメじゃないですか?なんていうか、双方向性みたいなのがないと自己満っていうか」

 

「あー、それはある」

 

トシ「うん、たしかに。私も同意見です。双方向性、必要な気がします。」

 

ヤナギ「でも、犬でかんがえても、向こうがなでて欲しいと思ってるか分からなくないですか?」

 

シバ「え?いや、分かんなくてよくないですか?というか分からないですよね、絶対。

だから、向こうがこうして欲しいだろうなーってことをやってあげて、喜んでたら成功っていうか」

 

「そうかー?」「なんか切ないね」

 

トシ「それは人間でもそうですね、フフフ。まぁ、人間の話はねぇ、皆さん友人や恋人もいるでしょうからここではこれ以上つっこみませんけど」

 

ホリ「犬とか魚はちょっとどうかと思うんですけど、人間って言葉があるから触れ合うことってできる気がします。

身体的な触れ合いって、動物だとそこ止まりなわけで。だから人間だと、言葉を介したやりとりもあって、いつも出来てるかっていうと怪しいんですけど、それでも言葉には本当のふれあいの可能性が残されてるっていうか」

 

トシ「言葉ね、うーん。私もね、それ大事だと思います。」

 

「言葉かー」「言葉ってそんなにすごい?」「イルカとかエコーで会話してるよね」

(しばらく言葉についてのやりとり)

 

コガ「ちょっと皆さんの話を聞いて僕の違和感を振り返ってみたんですよ、なんで魚のときはもどかしいのかなって。

確かに人間は言葉を通して触れ合ったり解り合ったりできそうで、でも動物だと触るしかないですよね。なんていうか、レベルが下がると、身体的な接触に頼るしかなくなってくるっていうか。

犬も、ウサギも、鳥も、トカゲもそうですけど、でもその下、魚になるといきなり触るの拒否される感じ、何なんですかね?」

 

シマ「いやコガさん、僕は○○水族館でサメの触れ合い体験やったんですけど、サメを水槽から出して触らせてくれるんですよ~。なんか触れ合ったなーって思いましたね。」

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「え?」

 

シマ「いや、だから、魚だってなでたりして触れ合えるんですよ。できるんですよ。」

 

ヤナギ「なんかそれって結構一方的な感じじゃない?」

 

シマ「そうかなー?触りましょうよ、みなさん。この水族館行くといいですよ。」

 

ヤナギ「でも私だけかもしれないんですけど、相手が自然な状態であることってすごく大事だと感じていて、人間のステージ?世界?に無理やり引っ張り込むタイプの触れ合いってなんか嘘っぽいっていうか…」

 

コガ「あぁ、さっきのスキューバの例を思い出したけど、たとえばイルカと一緒に泳ぐとか、それがイルカと触れ合うための、唯一とはいわないけれど、ひとつの納得できる方法な気がします。

イルカ生き生きしてるし、多分。そういう状態以外で交流してもたしかに嘘っぽいっていうのはわかります」

 

テツコ「でもコガさんのって、こっちから向こう側の世界に入っていくタイプですよね。向こうをこっちに引き込むのもちがうなと思うんですけど、こっちから向こうに行くのもどうなんすか?」

 

ツッチー「その感覚わかるなぁ。ちょっと昔読んだ文章思い出しました。どういうのかっていうと、釣りの話なんです。

水面の上では人間が人間の世界を持ってる。水面の下では魚が魚の世界で、魚なりに生きてる。おたがい別の層で、それは重ならないんだけど、釣りで魚がエサをくわえた瞬間、別々だった世界が釣りという行為においてピタッと統一されるっていう。

わかります?魚が逃げようとする力と、人間が釣り上げようとする力のその拮抗において、本当の触れ合いがあるかもしれないっていう話です。変なこと言ってるのは自分でも分かってますけど。」

 

(釣りの話についてのリアクションがつづく)

「人間が釣る側、魚は釣られる側っていうのは逆転しませんよね。釣られたいと思っている魚はいないっていうか。釣りは双方向性はあるけれど平等性が無いというか」

「やっぱ平等で自然な触れ合いとかは幻想で、結局自分が満足する触れ合いしかできなくないですか?」

……

 

ホリ「魚って、水面をへだてた向こう側にいるじゃないですか。その超えられなさみたいなのってなんだろう。これって魚特有の問題なんですかね?」

 

コガ「水面のこっちとあっちの世界が異なるっていうのなんか切ないですね。でもそう思うってことは、魚だろうがなんだろうが触れたいんだなっていう。」

 

トシ「ちょっとズレますけど、『自然と触れ合う』っていう言い方しませんか?山登りとか、キャンプとか。僕の感覚ですけど、どこかで植物や地肌といったものに実際に肉体的に接触しないと『触れ合う』っていうのがしっくりこない気がするんですよ。

だから魚でいうと、エサをやるよりは釣りの方がしっくりくる感じするなぁ。

でも人間同士だと、んー…どうでしょうかみなさん。身体的な接触は要らないですかね?言葉だけでいいんだろうか?言葉だけのほうがいいんだろうか?」

 

ヤナギ「私は動物に対して行われる身体的ふれあいが、こっちからの一方的な押し付けだと思ってるんで、人間でもそれは同じで、だから言葉が大事っていうか。身体は多分ふれあってる感があるからそれが怖いですよね。」

 

トシ「僕らここでこんなに語り合ってますけど、一切わかり合ってない可能性も…ありますよね。」

 

「えーーー」

 

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人とも魚とも、触れ合うことはできないんだろうか。

触れ合うことと、わかり合うことは同じだろうか。

触れ合えないこと、わかり合えないことは、よくないことだろうか。

 

触れることも、わかり合うことも出来ないかも知れないのに、

なぜ話すことはこんなに楽しく思えてしまうんだろうか。

 

昨日たまたま水槽の中の金魚を見た。

ガラスの向こうには行けないけれど、そのことはもうあまりもどかしくなくて、僕とはずっとすれちがったままの金魚でいてほしいとさえ思えた。

 

哲学対話をやるとどんどん変態的になっていくのかもしれない。それは、賢くなるよりずっと気持ちのいいことだ。僕の場合、変態的になると、世界が住みやすくなる。

もちろん、捕まる系のガチ変態じゃなくて、あくまで変態「的」という比喩なのだが、それが何なのかよくわからない。

こんなこと言ったらもう誰も僕と話してくれないかもしれないが、哲学対話は変態的でいられる自由がある気がするし、そういうときほど僕はいきいきとできるのだ。

ルール

哲学カフェでルールについて話した。

さいしょはあんまり広がらないかもなーと思っていた。

 

ところがやっぱりやってみると違うんだなぁ。

三人寄らば文殊の知恵、ってわけじゃないけど、思わぬ意見にどんどん刺激を受ける。

途中の話は省くが、結局ルールというものそれ自体のもつ奇妙な性質について疑問がふくらんできた。

奇妙な性質というのは例えば次のような事を考えてみよう…

 

わたしたちの周りには様々な個別具体的なルールが存在しているが、そもそもそれらはどれも「ルール」である以上「例外なく常に守らねばならない」はずである。

しかし次のようなルールもあり得るだろう

 

このルールは、時にはやぶってよい

 

うーん、確かにこれもルールのひとつでないとはいえない。

だが、「時にはやぶってよい」というルールを「例外なく常に守らねばならない」というとき、いったい何が起きるだろうか?

僕の頭ではもはや分からない。いや、分からないということが分かっているから大丈夫だ!

とにかく、ルールは、「ルールをやぶれ」ということさえできそうだ。でもそれってルールと呼べるのか?なんか矛盾してる気がする。

  

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そしてもうひとつ奇妙で面白いのは、ルールは自己を補完するために無限増殖する運命にあるということだ。

たとえば、よく問題になるスカート丈を指定する校則で「スカートはヒザ下3㎝」(てきとう)と定められていたとしよう。

そこに猛者が登場する。ヒザ下3cm以下にスカート全てを下ろしてしまうのだ。ちょうど立小便をする男子児童のように。

学校は慌てて校則を付け足す、「スカートはヒザ下3cmとし、ただし5cmを超えてはならない」と。

そうすると校則を破ることに命をかけた頭のおかしなのが出てくる。そしてヒザ下3cmから5cmにかけて帯のようなものを巻き付けて登校するのだ。(冗談ですよ奥さん)

学校は慌てて付け足す「スカートとは、かくかくのものであり、これ以外を認めない」と。すると頭のはたらく生徒が、「いえスカートの歴史をひもとくとしかじかのものであり学校の定める定義のみをスカートとみなすことはとうていできない」なんて申し立てたりして、学校にとってのスカートとスカートそのものがもつスカート性についての齟齬が表面化する。

そしておそらくスカートが一体何であるかをきめるには、服とは何かみたいな話が必要である。

まぁ、このようなやりとりがn回ほど続く。しかし確実なのは、細かく補足を付け加えるほど他のルールと矛盾を起こす可能性が増えていき、最終的にはその肥大したルールが破綻するということだ。

あるいは他のルール体系を全部つぶして自分のみがルール界の唯一存在になろうとするルール大戦が起きるかも知れない。

 

以上のことから僕の関心というか考えたことは、ルールとは基本的に矛盾をふくむ非常に脆弱なものかもしれないということだ。

 

だから「ルールを守りましょう」というのは、「ルールだから守れ」という事では無く、「ルールちゃんをやさしく保護してあげよう」という事だとも解釈できる。

 

もちろん弱い奴ほど刃物とか持っているのと同じで、ルールちゃんは実際にはゴリゴリの鎧を着ていて違反者を片手で生搾りジュースにできる。

貧しさゆえにまんじゅうを盗んだ老婆を逮捕できるのだ。

 

私たちはそんなルールちゃんが怖いと言い訳をしながら、あざむき、否定し、狡猾に生きている。

僕はそれが許せない。

ルールを守ろう!

Save the rule! Let the rule rule!そうプラカードに書いてあこがれのあの子と行進したい。

 

「ただルールを守るなんて思考停止の馬鹿者じゃないか!」いや、そうじゃないんだ。できるものなら君、ルールを本当に守ってごらん。一切の疑問を差しはさまずに。

むしろそっちの方が難しいのだ。そんなことができる人間は僕にはとってもすばらしいと思える。

 

その具体例として、『人間の土地』*1の登場人物を挙げたい。けど、名前を忘れてしまった。主人公の飛行機乗りの上司(?)だ。まぁ鬼かというぐらい冷徹なのだが、彼はけっきょく登場人物のなかでとびぬけて美しいのだ。

 

もちろん誰かが作ったルールだと政治的には危ないかも知れない。

だからルールはそのルールを心から守ろうとするこの「私」によって立てられたほうがよいだろう。

たとえば必ず夜12時に寝て朝6時に起きるとか。

そしてそのルールが一切の例外なく厳格に守られることによって、ルールは社会の大衆から軽んじられるような扱いから守られて初めてルールたらしめられるのだ。

 

…などと考える事もできる。20%ぐらいふざけているが結構本心だ。

要するに、狂信者みたいなのはのぞいて、自分から自分の自由意志みたいなのを本気で捨てられる人に何だか尊さを感じるよねという話。むしろ人間を超えた感じさえする。

そういう人に私はなりたいと思っていたし、実践もしたけれど、結局終わるんだ。たぶん飽きるから。

神から直接つくられたアダムでさえできなかったのだし、仕方ないだろう。

 

ところで神様は世界に最初のルールを作ったとき「わしは守らないけどね」とお考えだったのだろうか、それとも神様もルールに従うのだろうか?

謎が謎を呼ぶ。

*1:『星の王子様』や『夜間飛行』で有名な飛行士兼作家サン=テグジュペリの作品。友人の帰還、遠くからの知らせなどを通して「待つ」ということが描かれる、地味ながら凄みのある作品。