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「時間」ですよ

 

3月、卒業シーズンだ。

僕も縁のあった学校で卒業式や謝恩会というものに出席した。

 実は今日もそうだった。

 

こういう日は、何か書かなければいけない気持ちになってしまう。

人は、と言って差し支えないと思うが、とにかくいまこの時間を忘れたくないという欲望に駆られてどうしようも無くなることがある。

そんなとき、まあ学生ならば気の合う友と飽きるまで過ごせばいい。

しかし僕は幸福な家庭をガラス越しに見つめる庭師だ、一人で書こう。

 

昼から高校の謝恩会に行った。

いつもの制服を着た生徒たちがいた。いるのはあたりまえだが、なんだか違って見えた。

 

大人になったとか、そういうことじゃない。

おそらくこれは祭りの日に同級生に会った時のような感覚に近い。

といってもそれはいつもとちがう特別な服や持ち物で作れるような感覚ではないと思う。

 

じゃぁ何が違うか?

自分が卒業生になったつもりで考えてみよう。

卒業の日。たとえば校舎の時計は、自分がこれまで飽き飽きするほど見てきた物であると同時にこれからもしかしたら二度と見ることがない物として現れてくる。

つまりは、「少なくとも今はまだこれまでと同じように目の前にある」のだが、同時に「今立ち去ればもう目の前から消える。または、これまでのような関係において再び出会われない(ありきたりのものではなく、懐かしいものとして見てしまう)」ものなのだ。

クラスメイトだって同じだ。どんなつまらない時間でも一緒だったのに、もしかしたらもう二度と会わないかも知れない。

渡り廊下とか、校庭の砂粒ひとつとっても感情があふれ出る直前にまで達しそうになる。窓からみえる変な木や通学路でさえもそうだ。

見るもの触れるものみなエクスタシー。

フェティシズム(物神崇拝)を極めたマスターフェティシストの境地である。

 

ということはつまり、「今」というものがとてつもなく重要になる。

今見ておかなければ、今声をかけなければ、無数の情景とか人生とかに対してなんだか取り返しのつかないことになるかもしれない。

 

日々の暮らしを支配する、あの24時間の平等な時間とはまた違う時間がここにはある。

あの人ともう会わないかも知れない、ここにはきっと二度と来られない、来たとしても意味がかわってしまっている…そんな重大すぎる「今」における時間とはどんなものだろうか。

 

今、たとえば2017年3月21日の13時12分27秒がもう二度と来ないことは誰でも知っているし、そんなものはまぁはっきりいってどうでもいい。

数字が同じように並ばないというだけだ。

 

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しかし、自分が18年間(高校生のつもり)生きてきて、同じようにこれまで生きてきて少なくとも3年間を共有した存在がいて、いままさにここで自分の人生からほとんど失われつつあること、

そしてその両方の事実が不可逆で代えの利かないものであることは、日付の数字が二度と同じものにならないことよりも意味不明なぐらい重大なのだ。

 

ハイデガーという人の本『存在と時間』では、なんだかとらえどころのない「存在」というものがどうやら時間を通して理解されるという話をしているのだが(適当)、裏からいえば、やはり「時間」というものも―当然知ってるつもりではあるのだが実は目の前のかけがえのない「存在」を通してしか経験されないとも言える。

だって、時計をみたり、カップ麺が出来るまで待てるからといって時間が「分かる」なんておかしな話だ。

そんなもんじゃなくて、僕がひとりの生徒と話すというそれだけで、というより一瞬の目線の内に、本当の時間というものをいやおうなく理解させる力がある。

 

生徒も、先生も、保護者も、僕も、この祝祭によって自分の人生(これまでの、ではなくこれからの、も含めた人生の物語)における「時間そのもの」を相互に取り戻させる。

時計やスケジュール帳によって切り刻まれていない時間そのものを。

単なる数字の並びとしてではなく、本当に繰り返すことのできない私とあなたが共に存在するこの時間を。

しかも!それがすばらしいからそうしたわけではなく、なんだかそうなってしまうのだ。

卒業式というものの中身は、そのような時間の復活祭とでもいうべき奇跡的な祝祭なのだ。

 

ところがまた。

この祝祭の参加者たちは、その同じ時間の力によって、苦しめられる。

卒業したら次は何々、いついつまでにあれ何とか、何歳を過ぎるとどうこう…

いまここで自分のかけがえのなさと対峙するとき、人はいとも簡単にあの忌まわしい「人生設計」に陥る。

 

(正直に言うと、そのような計画の一里塚として卒業式をとらえている人の方がほとんどだということは分かっている。あるいは苦痛でしかない場合もあることを。)

 

だが二度と繰り返せない生を送るというその一回性は、他者に先んじるとか、失敗しないとかいう「設計」によって克服できはしない。

また、取り返しの付かない失敗をしても、生の一回性が損なわれることは決してない。ヤセ我慢だけど、そう言ってしまおう。

 

ところがふつうは、生の一回性がヘビーすぎるが故に、人生設計をすれば安心なんだと思うようになる。あるいは悲劇的なことだが、人生を設計したうえで失敗して苦しみを背負ってしまう。

 

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しかし、過去から未来へ流れる数直線的な時間の中で自分のことをどう位置づけたとしても、そんなものをふっとばしてチャラにしてくれるような全く別の時間、つまりお行儀良く並んでいない時間そのものの爆発みたいなのが突然やってくることもある。そのことは信じていいと思う。

 

僕レベルになると、毎年の卒業式だけでなく、いろいろな行事で人々の人生時間の爆発をあびてむちゃくちゃにされにいくのである。

ただし同級生の結婚式だけはもうそろそろきついかもね^^

って書こうとしたら、だいたい終わってた。

子どもを恐れよ、そして武装解除に哲学を

先月、今月と、いわゆる「子ども」がこれまたいわゆる「哲学」をする場に行ってきた。「子ども」たちは、みな小学生だ。

 

去年同じような機会があったが、子どもでもここまで考えられるのか、ということに驚いた。

と同時に、「子どもの賢さに大人が驚く」という予定調和を見た気にもなった。

テレビドラマでも子役の名演技に大人が感心している。

だがこのような驚きや感心は、そもそも大人が子どもをあなどっているから成立するのだ。ここに子どもの哲学の本質はないだろう。

「頑張ってね」とおなじくらい空虚なノリで「すごいね」と言ってしまうが、それだけで終わってしまうのも違う気がする。

 

哲学は、子どもにとって、褒められるツールに成り下がるべきではないと思う。

哲学は一般に大人でも難しいこととされているので、それを見抜いた子どもにとっては格好の褒められツールになる危険性が高い。

だからこそ、それをうまいこと防止しないといけない。

そうして残る哲学とは、何をすることなのだろうか。

 

子どもの話だからこの際言っておくと、僕は基本的に子どもが恐ろしい。

彼らは遠慮がなく、がさつで、下品である。正直であると同時に、平気で嘘を隠蔽し、「純粋さ」というイメージを武器にして無罪さえ装う。

 

嫌いじゃないけど、手強いのだ。

 

それに制限がなければいつまでも遊び続けるし、疲れるということをしらない。

もちろん勉強ばかりしている子もいるが、それは褒められたいから(あるいは罰をおそれるから)だ。実際に必死で中学受験の勉強をしている子どもを見ていると、その子らは親から褒められることに必死であり、あるいはその愛を失うまいと必死である。

一方、「こうすれば大人は褒めてくれる、チョロいぜ」、ということも知っている。

悪魔である。

 

ともかく、子どもほど純粋に快と苦に忠実で、その真っ只中で生きている存在はない。

だからこそ大人は子どもを自制心がなく、未熟だと考える。

 

ところが、むしろ逆なのだ。

大人は、未熟さを克服した子どもではなく、いわば家畜化された子どもである。すました大人も一皮むけば恐るべき子どもであることは、自分を振り返れば誰もが分かることだろう。

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大人になって子どもと哲学をすると、そんな問題を思い出させてくれる。

だから「こんな非常識なこと、子どもの前で言っていいんだろうか」という意見は、子どもを脅かすどころか、かえって安心させたり感心させたりする可能性だってある。

「あの犬、狼のような意見を言ったぞ、やるなぁ」というわけだ。

そんなことは教室では起きない。家庭でも起きない。大人は子どもを大人化することに必死だからだ。

悪いことではない。むしろ相当な努力を要する大変な仕事だ。

けれど、大人って本当に正しいの?っていう疑いの声を、子ども同士で出せる場所もないと不公平だ。そんなときに、あらゆることを疑って探究できる哲学が必要になる。

 

そんな場で大人が何かやれるとすれば、家庭や教室とは違う振る舞いをすること、たとえば「大人であることに縛られてないぜ、ヘイ」と示すことだろうと思う。

子どもではないが大人でもない変な存在、中間者のようになって、奴らを混乱させるのだ。それなら楽しそうだし、楽しそうだと思える時点でちょっと子ども的になってるから合格っぽい感じがする。

 

大人の振る舞いがそのようなものでありうるとして、それと同時に強調せねばならないことがある。

当たり前すぎて取り立てて言う人は少ない気がするが、それは、子ども自身もまたつねに大人であることから逃れられないということだ。

冒頭に挙げたように、子どもは既に大人化しつつあって、もうそれは防ぎようがないのだ。

だから、哲学は、子どもが真性に「こども」になれる場でもある。

「こども」であることは、子どもにとっても既に失われてしまっているのだと主張したい。

だから大人へのおべっかから解放され、家族や友人との社会生活をも休止できるような…事実問題そんなことが不可能だとしても、そんな気になれるような場を作ることが重要だろう。哲学する場は、そのようなものになるべきだ。

 

だから、ただへりくだって子どもに近づくだけでは不十分かもしれない。それは僕にはできそうにないすばらしい事だ。じゃあ何ができるかというと、子どもを子どもでなくしている何かに対して注意深くなるような、そんな見張り役程度ではないか。

…なんて難しく考えてるうちはまだまだ修行が足りないのだろう。

てつがくは かくせいざいより きもちいい

昨日、ありがたい一句をいただいた。
実際は句ではなかったのだが、ずっと五七五で渦巻いている。
「てつがくは かくせいざいより きもちいい」
 
哲学、というか「考えざるを得ないこと」には特有の苦しさがある。
僕の場合は、小学校低学年のときには「宇宙人につれていかれること」とならんで「母が母ではないかもしれない」(身近な人が本当に本物か)という奇妙な妄想であり、次に中学年になるとそれらに「死」が加わって、最後に引っ越しをして中学生から「見知った場所や友人が根こそぎ無くなる」という事が決定的となった。
 
こういうへんてこな問題は、きまって夜やってくるので、僕は寝るのが苦手だった。
当時の自分にとって寝るいうのはかなりの努力を要するものであって、一度寝たとしても悪夢によって眠りは浅くされた。
世の中の子どもの悩みは、「そんな悩みは、たくさん遊んでぐっすり眠ればきっと忘れるよ」と語られることが多く、そこでは循環論証が無責任に放置されている。
 
いつも体をどっちに向ければ早く寝れるか試していたが、妹なんかはとっくに寝てしまっていて、その単純さを見るにつけ自分以外はロボットじゃないかと思うこともあった。
いつだったか、なぜすぐ眠れるのか聞いたのだが、「私は妖精さんに守ってもらっているから」ということらしく、眠りに際して彼女なりの「まじない」があったのだろう。
 
しばらく後、中学生ぐらいになってから「あのときの妖精さんってどんなのやった?」と確認したら「お兄ちゃんが信じるか試しただけ」という薄情というか無情な答えが返ってきて、やっぱ他人はロボットだと思うと同時に、自分もロボットじゃないか試されていたのかと今になって思う。
嗚呼、We live in ロボットワールド。

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他人は時々ロボットに見えるが、自分にとってリアルな苦しみたちは決して裏切らずに苦しみでありつづける。だからある意味で他人よりも信頼できてしまう。
僕としては他人のように突然ロボットに見えて笑うしかなくなる存在というのは意外と救いなのだが、ずっと居座り続ける苦しみはどうしようもなくリアルでありつづけるわけで、救いのない泥沼だと分かってはいるが見て見ぬふりするのは中々難しいのだ。
 
僕のようにふらふらした人間は、こういった苦しみ、例えば死に向き合って苦しみ抜いた一握りの強い本物の人間だけが「死」語る権利があると考えてしまう。
 
それで思い出したのだが、20歳ぐらいのとき哲学好きの人とネットで知り合った。僕は大学の哲学科に行ってて、彼は薬学系の大学にいた。めちゃくちゃ明るくて、コミュ力の化け者みたいな奴で、一時期テレクラばっかりやってたと笑っていた。まぁいつもは馬鹿な話をしてたけど、ふと厭世的な瞬間も見せるところもまた魅力だった。
そのいつもの馬鹿話の中で、高校まで兵庫にいたこと、阪神淡路大震災で大切な人を失ったことをさらっと言った。
聞き間違いだと思ったけれど、うろたえて急にへりくだった僕に対して、彼は怒った。そのことは良くおぼえている。
 
それを思い出すと、やっぱり哲学は平等であるべき、というか哲学するときは平等になれるんなら素晴らしいなと思う。
特別な経験というのは結局、「一体なぜそれが(私にだけ)起こったのか」という、世界に対する驚きであって、それは震災だろうが、生だろうが、失恋だろうが、受験だろうが、障害だろうが、なぜそうなっているのかという驚きに支配されていることにおいてはみな平等な驚きメイトなのだ。僕だって誰だって同じなのだ。
 
 
突然だけどガウタマの話をしたい。ガウタマ・シッダールタという悩み抜いた修行者の話を。
彼は修行に関して「中道」というすごく良いことを言っている(倫理の授業でやった)。それはどういうことかというと、
 
”めっちゃ頑張って苦しんだとき、あー修行したなって思うけど、いつの間にか苦しむことが目的になってきてさ。苦しまないと修行じゃないって思いはじめるんだよね。悟りが目的なのに苦しみが目的になるっていうか。
でも、自分を追い込まないで楽にしてれば修行なのかっていうと、それも違う気がしてさ。正しい修行ってなんだろうね…”

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ガウタマは人が生きるために他の命を奪わねばならないことや、老いや死が避けられないことなどに心の底から驚いて、うちのめされた人だ。
 
そのことが一体なんなのか考え続ける中で、最初は自分の体を痛めつけて「生」を否定することでこの問題から解放されようとした。
しかし一向に状況は改善されないどころか、自分を苦しめて満足する自分を発見して落胆する。だがこれ以外に何をすればいいのか?今まで通り、釈迦族の王子として快楽のうちに生きればいいのか?
 
どうやら「中道」というのは、苦と楽のどちらにも固執しないこと」らしい。これは苦と楽の折衷案に落ち着くことじゃなくて、どちらに固執することも拒みつづけるという結構ダイナミック&ハードな思想だ。ダイ&ハード!
哲学も「これが哲学だ!」って言えた瞬間死ぬ生き物なので、誰でも「なんかちがくね?」って常に言えないとウソくさい。その意味で哲学は、ブッダの「中道」つまり「~しなければ修行ではないと固執すること」への否定と似てる気がする。
 
もしも、王子の生活の中で感じた快楽と虚無を感じた上で王子の位と生活を捨てて修行するほど覚悟と経験がないと、ガウタマの言う本当の仏教は分からないよ…なんていわれたら、人生賭けて仏教やるぞ!って息巻いている僧侶志願者たちは真顔になって現地解散である。
哲学も、特別な経験を生き抜くことなしにやれないのだと言われたら、そこは抵抗したい。
 
哲学対話のときに、よく「先生だって答えをしらないんだから平等に話しましょう」なんていうけれど「先生だから答えを知っている」が偽なら、「親を亡くしたから苦しみを知っている」とか「家族が障害を持っているから障害について語れる」も偽であるかもしれない。違うとしたら、世界への驚きに或る仕方で射貫かれているかどうかであって、「一体それが何なのか実はわからなくて苦しい」という点ではきっと平等に語りうるのではないか。
学校ではつい「配慮」とか「安全」ということを考えてしまうけれど、変な配慮によって、驚きへの可能性や平等性が閉ざされてしまうのならそこにはもう哲学することは現れないかもしれない。
同時に、おそらく楽しさからも遠ざかってはならない。なぜなら、もし自分のなんらかの「(つらい)体験」を自主的に話すということがあり得るならば、そこは自己開示が強制される場でもなく、いわば「語り部」のように自分が特権的な地位を保証される場でもなく、単に自然と話したくなってしまう楽しい場だからだ。
言ってもいいし、言わなくてもいい。言ったからといって、全員がしんみりする必要はない。けど、してもいい。どっちやねん。
 
ファシリテーションというのは、否定の繰り返しだ。
これが正しいというのが基本的に無いから不安だし、面白い。
哲学することもそうだ。
 
なんて、こういう具合に昨日から小難しく考えているのだが、思考の空白ができるとすぐに「かくせいざいより きもちいい」という底抜けにアホかつモラルのかけらもないワードが浮かんでくる。
脳髄に刺さっているのだ。
だから意味もなく突然おかしくなる。
勘弁してほしい。

プレイバック哲学対話 2017/1/10

哲学対話をやってきた。

参加者がとりくむ問いは、「魚とふれあうってどういうこと?」

 

http://3.bp.blogspot.com/-_VK-iy2AaN8/UrEgHII423I/AAAAAAAAb38/Cky7AhplmEw/s800/suizokukan_boys.png

(今回は「いらすとや」さんの画像を使わせてもらいました) 

 

メンバーは哲学科の教授、卒業生、院生、大学生1~3年というパワー系ラインナップ。

こういう人たちに好きに語らせたらとんでもないことになるという話。

 

このブログでは何回か繰り返すことになるが、哲学対話というのは要するにガチで話すこと。

「なんだ、そんなことか」と思うでしょうけど、それは半分間違い。

まずふつうの感覚をもった人間であれば、「魚とふれあうこと」についてガチで話そうとする意味がわからない。だからそれについて話すために「え…魚?ふれあう?」なんてことを考えるなんてはっきりいって時間の無駄だ。

そこで多くの人は、こういうときにかぎってまともな推論を行う。

「哲学ってやっぱり時間の無駄だ」

 

まぁ、そうかもしれない。でも、ちょっと振り返ってみたい。

 

上の問いが出た背景として、僕が姪をかかえて池の鯉にエサをやっていたときのことがあった。

鯉にエサをやるというのは面白くて、パンくずを投げると鯉がたくさんやってきてガポガポいいながら吸引していく。

パンが着水するやたちまち大きな口々に吸い込まれる様はコインを投げて賭け事をしているような気分を起こさせ、色とりどりの鱗が水面ちかくでキラリ、キラリとするうちに理性のバランスが危うくなる気さえした。姪ちゃん、おじさんはこんな気持だったんだ。

 

しかしふと、虚しくなる。パンを投げてるだけである。

でも、魚とふれあうってなんだろう。

姪も僕も、鯉を見てすごく満足していた。でも、触ってもいない。パンが尽きたら何をしていいか分からない。

「魚とふれあうってどういうこと?」

 

コガ「犬とかはわしゃわしゃーって触って可愛がれますけど、魚にそれやったらまず魚に害あるしこっちもヌルヌルになるだけですよね」

(以下、適当に再現しながらお送りします。事実とは異なる可能性が大です。)

 

テツコ(男)「魚との触れ合いで、僕、スキューバしたときのこと思い出したんすよ。海の中に魚のエサをもって潜るんですけど、めっちゃよってくるんですよ、魚。でも明らかにエサにしか行ってなくて、僕おいてけぼりっていうか。悲しかったっすね」

 

「すれ違いじゃん」「でもテツコ海似合うわ」

 

コシ「僕思ったんですけど、こっちが可愛がりたいとか、満足するだけじゃダメじゃないですか?なんていうか、双方向性みたいなのがないと自己満っていうか」

 

「あー、それはある」

 

トシ「うん、たしかに。私も同意見です。双方向性、必要な気がします。」

 

ヤナギ「でも、犬でかんがえても、向こうがなでて欲しいと思ってるか分からなくないですか?」

 

シバ「え?いや、分かんなくてよくないですか?というか分からないですよね、絶対。

だから、向こうがこうして欲しいだろうなーってことをやってあげて、喜んでたら成功っていうか」

 

「そうかー?」「なんか切ないね」

 

トシ「それは人間でもそうですね、フフフ。まぁ、人間の話はねぇ、皆さん友人や恋人もいるでしょうからここではこれ以上つっこみませんけど」

 

ホリ「犬とか魚はちょっとどうかと思うんですけど、人間って言葉があるから触れ合うことってできる気がします。

身体的な触れ合いって、動物だとそこ止まりなわけで。だから人間だと、言葉を介したやりとりもあって、いつも出来てるかっていうと怪しいんですけど、それでも言葉には本当のふれあいの可能性が残されてるっていうか」

 

トシ「言葉ね、うーん。私もね、それ大事だと思います。」

 

「言葉かー」「言葉ってそんなにすごい?」「イルカとかエコーで会話してるよね」

(しばらく言葉についてのやりとり)

 

コガ「ちょっと皆さんの話を聞いて僕の違和感を振り返ってみたんですよ、なんで魚のときはもどかしいのかなって。

確かに人間は言葉を通して触れ合ったり解り合ったりできそうで、でも動物だと触るしかないですよね。なんていうか、レベルが下がると、身体的な接触に頼るしかなくなってくるっていうか。

犬も、ウサギも、鳥も、トカゲもそうですけど、でもその下、魚になるといきなり触るの拒否される感じ、何なんですかね?」

 

シマ「いやコガさん、僕は○○水族館でサメの触れ合い体験やったんですけど、サメを水槽から出して触らせてくれるんですよ~。なんか触れ合ったなーって思いましたね。」

http://2.bp.blogspot.com/-j9FEqo_Sdn8/UnXnJRXq2NI/AAAAAAAAaIk/ZRcR8PmVYf8/s800/fish_shark.png

 

「え?」

 

シマ「いや、だから、魚だってなでたりして触れ合えるんですよ。できるんですよ。」

 

ヤナギ「なんかそれって結構一方的な感じじゃない?」

 

シマ「そうかなー?触りましょうよ、みなさん。この水族館行くといいですよ。」

 

ヤナギ「でも私だけかもしれないんですけど、相手が自然な状態であることってすごく大事だと感じていて、人間のステージ?世界?に無理やり引っ張り込むタイプの触れ合いってなんか嘘っぽいっていうか…」

 

コガ「あぁ、さっきのスキューバの例を思い出したけど、たとえばイルカと一緒に泳ぐとか、それがイルカと触れ合うための、唯一とはいわないけれど、ひとつの納得できる方法な気がします。

イルカ生き生きしてるし、多分。そういう状態以外で交流してもたしかに嘘っぽいっていうのはわかります」

 

テツコ「でもコガさんのって、こっちから向こう側の世界に入っていくタイプですよね。向こうをこっちに引き込むのもちがうなと思うんですけど、こっちから向こうに行くのもどうなんすか?」

 

ツッチー「その感覚わかるなぁ。ちょっと昔読んだ文章思い出しました。どういうのかっていうと、釣りの話なんです。

水面の上では人間が人間の世界を持ってる。水面の下では魚が魚の世界で、魚なりに生きてる。おたがい別の層で、それは重ならないんだけど、釣りで魚がエサをくわえた瞬間、別々だった世界が釣りという行為においてピタッと統一されるっていう。

わかります?魚が逃げようとする力と、人間が釣り上げようとする力のその拮抗において、本当の触れ合いがあるかもしれないっていう話です。変なこと言ってるのは自分でも分かってますけど。」

 

(釣りの話についてのリアクションがつづく)

「人間が釣る側、魚は釣られる側っていうのは逆転しませんよね。釣られたいと思っている魚はいないっていうか。釣りは双方向性はあるけれど平等性が無いというか」

「やっぱ平等で自然な触れ合いとかは幻想で、結局自分が満足する触れ合いしかできなくないですか?」

……

 

ホリ「魚って、水面をへだてた向こう側にいるじゃないですか。その超えられなさみたいなのってなんだろう。これって魚特有の問題なんですかね?」

 

コガ「水面のこっちとあっちの世界が異なるっていうのなんか切ないですね。でもそう思うってことは、魚だろうがなんだろうが触れたいんだなっていう。」

 

トシ「ちょっとズレますけど、『自然と触れ合う』っていう言い方しませんか?山登りとか、キャンプとか。僕の感覚ですけど、どこかで植物や地肌といったものに実際に肉体的に接触しないと『触れ合う』っていうのがしっくりこない気がするんですよ。

だから魚でいうと、エサをやるよりは釣りの方がしっくりくる感じするなぁ。

でも人間同士だと、んー…どうでしょうかみなさん。身体的な接触は要らないですかね?言葉だけでいいんだろうか?言葉だけのほうがいいんだろうか?」

 

ヤナギ「私は動物に対して行われる身体的ふれあいが、こっちからの一方的な押し付けだと思ってるんで、人間でもそれは同じで、だから言葉が大事っていうか。身体は多分ふれあってる感があるからそれが怖いですよね。」

 

トシ「僕らここでこんなに語り合ってますけど、一切わかり合ってない可能性も…ありますよね。」

 

「えーーー」

 

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人とも魚とも、触れ合うことはできないんだろうか。

触れ合うことと、わかり合うことは同じだろうか。

触れ合えないこと、わかり合えないことは、よくないことだろうか。

 

触れることも、わかり合うことも出来ないかも知れないのに、

なぜ話すことはこんなに楽しく思えてしまうんだろうか。

 

昨日たまたま水槽の中の金魚を見た。

ガラスの向こうには行けないけれど、そのことはもうあまりもどかしくなくて、僕とはずっとすれちがったままの金魚でいてほしいとさえ思えた。

 

哲学対話をやるとどんどん変態的になっていくのかもしれない。それは、賢くなるよりずっと気持ちのいいことだ。僕の場合、変態的になると、世界が住みやすくなる。

もちろん、捕まる系のガチ変態じゃなくて、あくまで変態「的」という比喩なのだが、それが何なのかよくわからない。

こんなこと言ったらもう誰も僕と話してくれないかもしれないが、哲学対話は変態的でいられる自由がある気がするし、そういうときほど僕はいきいきとできるのだ。

ルール

哲学カフェでルールについて話した。

さいしょはあんまり広がらないかもなーと思っていた。

 

ところがやっぱりやってみると違うんだなぁ。

三人寄らば文殊の知恵、ってわけじゃないけど、思わぬ意見にどんどん刺激を受ける。

途中の話は省くが、結局ルールというものそれ自体のもつ奇妙な性質について疑問がふくらんできた。

奇妙な性質というのは例えば次のような事を考えてみよう…

 

わたしたちの周りには様々な個別具体的なルールが存在しているが、そもそもそれらはどれも「ルール」である以上「例外なく常に守らねばならない」はずである。

しかし次のようなルールもあり得るだろう

 

このルールは、時にはやぶってよい

 

うーん、確かにこれもルールのひとつでないとはいえない。

だが、「時にはやぶってよい」というルールを「例外なく常に守らねばならない」というとき、いったい何が起きるだろうか?

僕の頭ではもはや分からない。いや、分からないということが分かっているから大丈夫だ!

とにかく、ルールは、「ルールをやぶれ」ということさえできそうだ。でもそれってルールと呼べるのか?なんか矛盾してる気がする。

  

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そしてもうひとつ奇妙で面白いのは、ルールは自己を補完するために無限増殖する運命にあるということだ。

たとえば、よく問題になるスカート丈を指定する校則で「スカートはヒザ下3㎝」(てきとう)と定められていたとしよう。

そこに猛者が登場する。ヒザ下3cm以下にスカート全てを下ろしてしまうのだ。ちょうど立小便をする男子児童のように。

学校は慌てて校則を付け足す、「スカートはヒザ下3cmとし、ただし5cmを超えてはならない」と。

そうすると校則を破ることに命をかけた頭のおかしなのが出てくる。そしてヒザ下3cmから5cmにかけて帯のようなものを巻き付けて登校するのだ。(冗談ですよ奥さん)

学校は慌てて付け足す「スカートとは、かくかくのものであり、これ以外を認めない」と。すると頭のはたらく生徒が、「いえスカートの歴史をひもとくとしかじかのものであり学校の定める定義のみをスカートとみなすことはとうていできない」なんて申し立てたりして、学校にとってのスカートとスカートそのものがもつスカート性についての齟齬が表面化する。

そしておそらくスカートが一体何であるかをきめるには、服とは何かみたいな話が必要である。

まぁ、このようなやりとりがn回ほど続く。しかし確実なのは、細かく補足を付け加えるほど他のルールと矛盾を起こす可能性が増えていき、最終的にはその肥大したルールが破綻するということだ。

あるいは他のルール体系を全部つぶして自分のみがルール界の唯一存在になろうとするルール大戦が起きるかも知れない。

 

以上のことから僕の関心というか考えたことは、ルールとは基本的に矛盾をふくむ非常に脆弱なものかもしれないということだ。

 

だから「ルールを守りましょう」というのは、「ルールだから守れ」という事では無く、「ルールちゃんをやさしく保護してあげよう」という事だとも解釈できる。

 

もちろん弱い奴ほど刃物とか持っているのと同じで、ルールちゃんは実際にはゴリゴリの鎧を着ていて違反者を片手で生搾りジュースにできる。

貧しさゆえにまんじゅうを盗んだ老婆を逮捕できるのだ。

 

私たちはそんなルールちゃんが怖いと言い訳をしながら、あざむき、否定し、狡猾に生きている。

僕はそれが許せない。

ルールを守ろう!

Save the rule! Let the rule rule!そうプラカードに書いてあこがれのあの子と行進したい。

 

「ただルールを守るなんて思考停止の馬鹿者じゃないか!」いや、そうじゃないんだ。できるものなら君、ルールを本当に守ってごらん。一切の疑問を差しはさまずに。

むしろそっちの方が難しいのだ。そんなことができる人間は僕にはとってもすばらしいと思える。

 

その具体例として、『人間の土地』*1の登場人物を挙げたい。けど、名前を忘れてしまった。主人公の飛行機乗りの上司(?)だ。まぁ鬼かというぐらい冷徹なのだが、彼はけっきょく登場人物のなかでとびぬけて美しいのだ。

 

もちろん誰かが作ったルールだと政治的には危ないかも知れない。

だからルールはそのルールを心から守ろうとするこの「私」によって立てられたほうがよいだろう。

たとえば必ず夜12時に寝て朝6時に起きるとか。

そしてそのルールが一切の例外なく厳格に守られることによって、ルールは社会の大衆から軽んじられるような扱いから守られて初めてルールたらしめられるのだ。

 

…などと考える事もできる。20%ぐらいふざけているが結構本心だ。

要するに、狂信者みたいなのはのぞいて、自分から自分の自由意志みたいなのを本気で捨てられる人に何だか尊さを感じるよねという話。むしろ人間を超えた感じさえする。

そういう人に私はなりたいと思っていたし、実践もしたけれど、結局終わるんだ。たぶん飽きるから。

神から直接つくられたアダムでさえできなかったのだし、仕方ないだろう。

 

ところで神様は世界に最初のルールを作ったとき「わしは守らないけどね」とお考えだったのだろうか、それとも神様もルールに従うのだろうか?

謎が謎を呼ぶ。

*1:『星の王子様』や『夜間飛行』で有名な飛行士兼作家サン=テグジュペリの作品。友人の帰還、遠くからの知らせなどを通して「待つ」ということが描かれる、地味ながら凄みのある作品。

「信州哲学カフェ」と「ふるさと」

今年は哲学カフェや哲学対話の記録をつづけてみよう。

なんだか一回一回がおろそかになって来た気がしたので。だから参加者の発言とか全体の内容とかよりは、自分が好きなように書き残すものになりそうだ。

 

昨日は信州哲学カフェに参加した。

信州、それはすなわち信濃の国である。今風にいうと長野だ。

関東在住のコガ、なぜに長野?

解説しよう、僕はたまたま正月を京都ですごしており、「すこし足を伸ばして」長野に寄って、そのあとで東京方面へ帰ろうという寸法である。

 

しかし東海道しか使ったことのない人間にとって、これは大きな誤算だった。

しかも目的地である長野(市)は長野(県)のだいぶ北にある。でっかい県なのにそりゃないぜ。ほとんど新潟とか富山だ。

   http://www.pref.nagano.lg.jp/10koiki/images/kakuchimap_7.gif(長野県HPより)

こうして、「京都から名古屋に出れば目の前が長野だよ」という中学生並の地理理論はたちまち破綻し、5時間を超える旅路を強いられたのだった。(予算のせい)

 

到着するとすぐに東京方面からの一団に合流して信州そばにありついたが、それもつかの間、観光などする余裕もなく「善光寺下」駅ちかくの現場に向かった。たしかに観光らしいことはしていないのだが、坂の多い道から見渡せば果てしなく遠くに雪を戴いた山々が厳然と連なっている、その動かしがたい事実に囲まれたとき、何かしらの信濃性(シナニティ)を受け取ったような気がした。

 

日本の「哲学カフェ」というものは、カフェのように自由に出入りできる場所で自由に話しましょうという主張とほとんど同じだから、べつにカフェ=喫茶店でやる必要はない。テレビも電話も喫茶もねぇ場所でもできる。公民館を使ったら哲学カフェじゃないとか、カフェを名乗れないとかそういうことではない。その程度のものだ。

 

しかし老若男女が集まる場では「自由に話す」という方が大変なくせもので、ほっといたらオジサマがしたり顔で自慢話をはじめたりして、社会の中にある老→若、男→女といったあらゆるマウンティングが、あらこんなところにもというぐらい容易に見いだされる。

 

これを防止しないと自由に話し合うという理想にはとうてい近づけないのだが、そのような予防訓練は家庭にも学校にも会社にも存在しないので、まあ、その練習の場のひとつとして哲学カフェはたぶん必要なのだ。

 

「自由に話したいなら偉くなれ」「年をとって経験を積んでから語れ」と考える人もいるだろう。なぜならいまの日本社会はそうなっているから。

それを完全に否定するつもりはないが、偉くない人、年少者、そういった存在は「聞くに値しない」と言っているのと同じであるからそれはだいぶ頭の悪い主張である。なによりこの種の主張は―すこしでも考えれば分かることだが―自己矛盾によって内部崩壊するのでなおさらである。なぜなら、「もっと偉い人」「もっと年長者」が必ず居るのに、自分はその人たちを差し置いて「聞くに値する」人物のつもりになっているからである。

よって、自らの信じる原理に従えば、彼らは口を開くことはできなくなる。それでも話したいなら、なにかしら哲学カフェ的な理念に賛成するしかないだろう。

 

僕が言っているのは、哲学カフェは弱者救済のためにあるとか、弱者の味方だとかいうことでは全然ない。

そうではなくて、そもそも偉いとか強いとか弱いとかそういう分け方は恣意的で一時的なものであって、その恣意性に盲目な社会とか関係性はおしなべてしょうもない…ということは多くの人が同意してくれるだろうから、じゃぁ実際そうじゃないところをつくろうぜということ、ただそれだ。

 

 

さて、初回にありがちな説明はこれでおしまい。

今回はいわゆる「住み開き」された住居をお借りした場所らしい。土間に椅子を出し、ぐるっとストーブを囲んで話すうちに人数もそろったので始まった。

曇りのせいか、あるいは長野の夕暮れは早いのか、4時前なのにもう薄暗くなっている。一面を占めるガラス戸から見える雪、生活の往来、濡れた地面を照らすヘッドライトが美しい。ああ信州。

 

この日話したのは「ふるさと」について。たまたま僕が帰省した経験からぼんやりと話したことから、他の方の意見も重なって参加者の関心がそちらに向かったようだった。たぶん帰省シーズンというのもあったし、僕が身を以て実感した広大な長野県における、多様な地域性などもきっとからんでいたのだろう。

 

およそ30名の参加者で半数以上が初めての「哲学カフェ」ということで、あまり肩肘張った問いにならないように経験に即した問いになるといいなとは考えてはいた。でもそういうのは余計なお世話というやつで、純粋に「ふるさと」について考えたくなったのだ。

基本的に僕は問いを出す時間が苦手だ。何か考えて行くのも狙いすぎだし、何も考えて行かないと本当に何も出ない。結構な時間、参加者の思考を集中させてしまう何かを出すというのはそう容易にできるものではない。基本謙虚だし。

 

3時間にわたる対話の中身などは他の人に任せるとして、結局何を考えたのか。考えたかったのか。

 

どうやら、「ふるさと」観というものはその人の歴史の鏡になっているらしい。

ある人はふるさとを慕い、またある人は忌み嫌い、無関心であり、考えたこともなく、定まっておらず、縛られており…自分の生きてきた中で「そうならざるを得なかった仕方」でしかふるさとを見れないのだ。

その仕方は、みんな微妙に違っている。好きとか嫌いとか、その程度の単純なものだと思っていたが、これは大変不思議なことだ。

 

僕は小学校卒業のタイミングで引っ越しをしたので、いつまでも当時の狭い世界を理想郷のように追い求めてしまう。実はつい先週にあたる2016年末にそこを訪れたのだが、なつかしくうれしい反面、空間は全く同じなのに時間的なずれがどうしても埋められず、どこへ行っても違和感が残った。

ここにふさわしいのは小学生の自分であって、今の自分では無い。

きっとその違和感込みで胸がざわざわするうちに退散するのが正解なのだろう。

もしここに戻って住んでも、たぶんがっかりするだけだ。「ああ、こんなものか」と。

 

僕と同じように生まれ育った場所を離れた人が、どこに住もうが自分には故郷は無いと言っていた。

一生根無し草だと言っている人もいた。

そして、産まれてからずっと長野で育ったという人もいた。

この純長野人さん(仮)が面白いことを言っていた。

自分はずっと長野だから長野の嫌なところもたくさん見てきました。けれど、観光や移住で来た人、今日哲学カフェで来た人も、自分が見ていないいろんなところを褒めてくれます。

たぶんどっちの長野も本当の長野なんでしょう。だから、もしかすると自分の住んでいる長野と、みなさんにとっての長野と二重になって存在しているのかもしれません。

細部は覚えていないが、大意はこういうことだったと思う。

二重の長野!

純粋に或る土地にべったりの人にとっても、その場所が他者に開かれていて二重性を許すのであれば、つまり先祖代々ずっと住み続けている人にとっての解釈だけがその土地についての絶対的な正しい解釈でないのだとすれば、けっきょく私たちの住んでいるこの場所というのはいったい何なのだろうか。だれが答えを教えてくれるのだろうか。答えはあるのだろうか。

 

もしかしたら、都会に出ようが、引っ越そうが、どこかに居続けようが、自分が居る「ここ」とは一体どこなのか誰もが分からないのかもしれない。

分からないから、ふるさとという理念のようなものを作って、そこに安らぎをもとめているのかもしれない。

 

話はそれでは終わらなくて、「ここ」というのが空間的な位置のみをさすわけではないだろうということをまだ考えたい。

「ここ」とは、時間や、人との関係や、そこから見える風景、そしてそこからのふるさとへの態度さえも、そのつどひっくるめた全体として自分が居る「ここ」なのだと思えるのだ。なぜなら、あたりまえのことだが、私たちは幾何学平面上の(x, y)ではないからだ。

 

「ここ」というのは、決してグーグルマップの矢印でも、iPhoneが教えてくれるGPS座標でもない。「ここ」は、電線の描く幾何学模様や、商店街の匂いや、パチンコ屋の音や、道路の向こうに見える高架とその向こうの空の案配とか、そういう毎日のどうでもいい気分や感じの積み重ねであって、これらはスパコンで処理できないような情報量だし、やっぱり「感じ」としか言えないようなヘンなものとしてしか現れない。

 

それって「私」そのものじゃないの?とも思えるけれど、ときどき空気の匂いとか地面の汚点(しみ)とか、そういうごく単純そうなものを通して、別の「ここ」(あそこ、ふるさと)が時間と空間を超えて私に対してその本質を突き刺してくることもある。ってことは、「私」自身はそれらとは別物なのだと思う。

しかし、僕がふるさと的な原風景を訪れても違和感があったことからわかるように、僕の生きている「ここ」を、ふるさと的な「あそこ」と同一化させようという努力は無駄に終わるらしい。

「ここ」と「あそこ」の差異が埋まらないのはなぜだろうか。

 

hereとthereのあいだにあるt、それは時間

 

ほんとかよ。いま作ったけど。

でも理想だったはずの「あそこ」に立つその時、「ああ、ここではないのだ」という気持ちとともに「あそこ」と「ここ」がするりと交わらなくなってしまう。だから時間をとめないと、合わせ鏡のように両者が更新されて、ずれ続けてすごく気持ち悪い。

嗚呼んビバレンツ。

 

さいしょは哲学カフェのこと書こうとしてたのに、ふるさとの話書いてるし。

だめだこりゃ。時間ってこわいね。

くまの連絡帳1

どうも、くまです。

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絵に描かれただけの存在ですが、だいたいノートにはさまったまま、ぼくを描いた人のことをみてすごしています。

なんていうんでしょうね人間たちのやってることが全体的にわかるんです。くまなのに。

 

ぼくを描いた「コガさん」は人間の子供がたくさんいる部屋に行ってしゃべる「じゅぎょう」という仕事をしていますが、むずかしいことは分かりません。

子供というのはいつもさわがしいものですが、コガさんが来ると静かになります。きっとそういう約束をしているのでしょう。

 

でも静にしない子供もいます。もし静にするのが約束じゃなかったのだとしたら、べつにいいんですけど。

でも他の人はみんな静かだから、静かに聞かないといけないのだと思います。たぶん。

 

だって、コガさんはぼくをつくった神様みたいなものですし、話していることは、きっととても、すごいことなのですから。

でも、他にもたくさんの大人がこの部屋に来て、それぞれまったく別のことを話しているようです。

 

神様がそんなにたくさんいて、毎日ちがう話をされたら、ぼくはがんばって聞きますけど、やっぱり混乱してしまいそうです。

だからぼくだったら、コガさんの話以外はあまり聞かなくていいかなと思います。人間の子供も、静に聞きたいのはだれか一人なのかな。

それでも、みんながたくさんのおとなの話を聞けるのは何でだろう。

それが人間とくまのちがいでしょうか。

ちょっと不安になりましたけど、

「授業する側の先生たちは話を聞いて欲しいからね、色々工夫するんじゃないかな。そもそも話がうまいとか、知識がすごいとか、そういう実例を見てきてるし。」

ですって。よかった、話すおとながちゃんとしてくれるんだ!

 

 

 

「今日は何もしたくないから、授業しなくていい?」

そうコガさんが言ったときのことをよく覚えてます。

ぼくはいつものようにお話を静かに聞いてるのが好きだったのに、何もしたくないですって!工夫するって言ったのに!

話す側と、聞く側がはんたいになったらダメです。だって、ぼくもみんなも聞きに来てるのに。

 

お話しないならコガさんが居る意味ないでしょ!

「授業しないと居ちゃだめ?」

だって、みんなにしゃべる仕事でしょ?

「べつにしゃべるのが仕事じゃないよ。それだったら塾の映像とかのほうがはるかに上手でしょ。先生のすばらしさは、自分がしゃべらなくてもいい時間をつくれることなんだから。」

え?サボれるってこと?

「くまっていっつもサケとってる?」

いや、そんなには。むしろ一年でちょっとだけです。

「くまをサボってる?」

べつに。…あれ?

ぜんぜんうまいたとえじゃないけど、ちょっと納得しました。

 

でもそしたら、きょうしつでだれが何をすればいいのか、困ってしまいました。

いつもはみんな寝ててもしゃべり続けるほどのコガさんが、今日はやりたくないというのも変です。でも、いつもしゃべってるからたまに飽きるのかなーとも思います。

やっぱり分かりません。

んー、くまった。

 

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