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「信州哲学カフェ」と「ふるさと」

p4c 哲学対話

今年は哲学カフェや哲学対話の記録をつづけてみよう。

なんだか一回一回がおろそかになって来た気がしたので。だから参加者の発言とか全体の内容とかよりは、自分が好きなように書き残すものになりそうだ。

 

昨日は信州哲学カフェに参加した。

信州、それはすなわち信濃の国である。今風にいうと長野だ。

関東在住のコガ、なぜに長野?

解説しよう、僕はたまたま正月を京都ですごしており、「すこし足を伸ばして」長野に寄って、そのあとで東京方面へ帰ろうという寸法である。

 

しかし東海道しか使ったことのない人間にとって、これは大きな誤算だった。

しかも目的地である長野(市)は長野(県)のだいぶ北にある。でっかい県なのにそりゃないぜ。ほとんど新潟とか富山だ。

   http://www.pref.nagano.lg.jp/10koiki/images/kakuchimap_7.gif(長野県HPより)

こうして、「京都から名古屋に出れば目の前が長野だよ」という中学生並の地理理論はたちまち破綻し、5時間を超える旅路を強いられたのだった。(予算のせい)

 

到着するとすぐに東京方面からの一団に合流して信州そばにありついたが、それもつかの間、観光などする余裕もなく「善光寺下」駅ちかくの現場に向かった。たしかに観光らしいことはしていないのだが、坂の多い道から見渡せば果てしなく遠くに雪を戴いた山々が厳然と連なっている、その動かしがたい事実に囲まれたとき、何かしらの信濃性(シナニティ)を受け取ったような気がした。

 

日本の「哲学カフェ」というものは、カフェのように自由に出入りできる場所で自由に話しましょうという主張とほとんど同じだから、べつにカフェ=喫茶店でやる必要はない。テレビも電話も喫茶もねぇ場所でもできる。公民館を使ったら哲学カフェじゃないとか、カフェを名乗れないとかそういうことではない。その程度のものだ。

 

しかし老若男女が集まる場では「自由に話す」という方が大変なくせもので、ほっといたらオジサマがしたり顔で自慢話をはじめたりして、社会の中にある老→若、男→女といったあらゆるマウンティングが、あらこんなところにもというぐらい容易に見いだされる。

 

これを防止しないと自由に話し合うという理想にはとうてい近づけないのだが、そのような予防訓練は家庭にも学校にも会社にも存在しないので、まあ、その練習の場のひとつとして哲学カフェはたぶん必要なのだ。

 

「自由に話したいなら偉くなれ」「年をとって経験を積んでから語れ」と考える人もいるだろう。なぜならいまの日本社会はそうなっているから。

それを完全に否定するつもりはないが、偉くない人、年少者、そういった存在は「聞くに値しない」と言っているのと同じであるからそれはだいぶ頭の悪い主張である。なによりこの種の主張は―すこしでも考えれば分かることだが―自己矛盾によって内部崩壊するのでなおさらである。なぜなら、「もっと偉い人」「もっと年長者」が必ず居るのに、自分はその人たちを差し置いて「聞くに値する」人物のつもりになっているからである。

よって、自らの信じる原理に従えば、彼らは口を開くことはできなくなる。それでも話したいなら、なにかしら哲学カフェ的な理念に賛成するしかないだろう。

 

僕が言っているのは、哲学カフェは弱者救済のためにあるとか、弱者の味方だとかいうことでは全然ない。

そうではなくて、そもそも偉いとか強いとか弱いとかそういう分け方は恣意的で一時的なものであって、その恣意性に盲目な社会とか関係性はおしなべてしょうもない…ということは多くの人が同意してくれるだろうから、じゃぁ実際そうじゃないところをつくろうぜということ、ただそれだ。

 

 

さて、初回にありがちな説明はこれでおしまい。

今回はいわゆる「住み開き」された住居をお借りした場所らしい。土間に椅子を出し、ぐるっとストーブを囲んで話すうちに人数もそろったので始まった。

曇りのせいか、あるいは長野の夕暮れは早いのか、4時前なのにもう薄暗くなっている。一面を占めるガラス戸から見える雪、生活の往来、濡れた地面を照らすヘッドライトが美しい。ああ信州。

 

この日話したのは「ふるさと」について。たまたま僕が帰省した経験からぼんやりと話したことから、他の方の意見も重なって参加者の関心がそちらに向かったようだった。たぶん帰省シーズンというのもあったし、僕が身を以て実感した広大な長野県における、多様な地域性などもきっとからんでいたのだろう。

 

およそ30名の参加者で半数以上が初めての「哲学カフェ」ということで、あまり肩肘張った問いにならないように経験に即した問いになるといいなとは考えてはいた。でもそういうのは余計なお世話というやつで、純粋に「ふるさと」について考えたくなったのだ。

基本的に僕は問いを出す時間が苦手だ。何か考えて行くのも狙いすぎだし、何も考えて行かないと本当に何も出ない。結構な時間、参加者の思考を集中させてしまう何かを出すというのはそう容易にできるものではない。基本謙虚だし。

 

3時間にわたる対話の中身などは他の人に任せるとして、結局何を考えたのか。考えたかったのか。

 

どうやら、「ふるさと」観というものはその人の歴史の鏡になっているらしい。

ある人はふるさとを慕い、またある人は忌み嫌い、無関心であり、考えたこともなく、定まっておらず、縛られており…自分の生きてきた中で「そうならざるを得なかった仕方」でしかふるさとを見れないのだ。

その仕方は、みんな微妙に違っている。好きとか嫌いとか、その程度の単純なものだと思っていたが、これは大変不思議なことだ。

 

僕は小学校卒業のタイミングで引っ越しをしたので、いつまでも当時の狭い世界を理想郷のように追い求めてしまう。実はつい先週にあたる2016年末にそこを訪れたのだが、なつかしくうれしい反面、空間は全く同じなのに時間的なずれがどうしても埋められず、どこへ行っても違和感が残った。

ここにふさわしいのは小学生の自分であって、今の自分では無い。

きっとその違和感込みで胸がざわざわするうちに退散するのが正解なのだろう。

もしここに戻って住んでも、たぶんがっかりするだけだ。「ああ、こんなものか」と。

 

僕と同じように生まれ育った場所を離れた人が、どこに住もうが自分には故郷は無いと言っていた。

一生根無し草だと言っている人もいた。

そして、産まれてからずっと長野で育ったという人もいた。

この純長野人さん(仮)が面白いことを言っていた。

自分はずっと長野だから長野の嫌なところもたくさん見てきました。けれど、観光や移住で来た人、今日哲学カフェで来た人も、自分が見ていないいろんなところを褒めてくれます。

たぶんどっちの長野も本当の長野なんでしょう。だから、もしかすると自分の住んでいる長野と、みなさんにとっての長野と二重になって存在しているのかもしれません。

細部は覚えていないが、大意はこういうことだったと思う。

二重の長野!

純粋に或る土地にべったりの人にとっても、その場所が他者に開かれていて二重性を許すのであれば、つまり先祖代々ずっと住み続けている人にとっての解釈だけがその土地についての絶対的な正しい解釈でないのだとすれば、けっきょく私たちの住んでいるこの場所というのはいったい何なのだろうか。だれが答えを教えてくれるのだろうか。答えはあるのだろうか。

 

もしかしたら、都会に出ようが、引っ越そうが、どこかに居続けようが、自分が居る「ここ」とは一体どこなのか誰もが分からないのかもしれない。

分からないから、ふるさとという理念のようなものを作って、そこに安らぎをもとめているのかもしれない。

 

話はそれでは終わらなくて、「ここ」というのが空間的な位置のみをさすわけではないだろうということをまだ考えたい。

「ここ」とは、時間や、人との関係や、そこから見える風景、そしてそこからのふるさとへの態度さえも、そのつどひっくるめた全体として自分が居る「ここ」なのだと思えるのだ。なぜなら、あたりまえのことだが、私たちは幾何学平面上の(x, y)ではないからだ。

 

「ここ」というのは、決してグーグルマップの矢印でも、iPhoneが教えてくれるGPS座標でもない。「ここ」は、電線の描く幾何学模様や、商店街の匂いや、パチンコ屋の音や、道路の向こうに見える高架とその向こうの空の案配とか、そういう毎日のどうでもいい気分や感じの積み重ねであって、これらはスパコンで処理できないような情報量だし、やっぱり「感じ」としか言えないようなヘンなものとしてしか現れない。

 

それって「私」そのものじゃないの?とも思えるけれど、ときどき空気の匂いとか地面の汚点(しみ)とか、そういうごく単純そうなものを通して、別の「ここ」(あそこ、ふるさと)が時間と空間を超えて私に対してその本質を突き刺してくることもある。ってことは、「私」自身はそれらとは別物なのだと思う。

しかし、僕がふるさと的な原風景を訪れても違和感があったことからわかるように、僕の生きている「ここ」を、ふるさと的な「あそこ」と同一化させようという努力は無駄に終わるらしい。

「ここ」と「あそこ」の差異が埋まらないのはなぜだろうか。

 

hereとthereのあいだにあるt、それは時間

 

ほんとかよ。いま作ったけど。

でも理想だったはずの「あそこ」に立つその時、「ああ、ここではないのだ」という気持ちとともに「あそこ」と「ここ」がするりと交わらなくなってしまう。だから時間をとめないと、合わせ鏡のように両者が更新されて、ずれ続けてすごく気持ち悪い。

嗚呼んビバレンツ。

 

さいしょは哲学カフェのこと書こうとしてたのに、ふるさとの話書いてるし。

だめだこりゃ。時間ってこわいね。