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プレイバック哲学対話 2017/1/10

p4c 哲学対話

哲学対話をやってきた。

参加者がとりくむ問いは、「魚とふれあうってどういうこと?」

 

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(今回は「いらすとや」さんの画像を使わせてもらいました) 

 

メンバーは哲学科の教授、卒業生、院生、大学生1~3年というパワー系ラインナップ。

こういう人たちに好きに語らせたらとんでもないことになるという話。

 

このブログでは何回か繰り返すことになるが、哲学対話というのは要するにガチで話すこと。

「なんだ、そんなことか」と思うでしょうけど、それは半分間違い。

まずふつうの感覚をもった人間であれば、「魚とふれあうこと」についてガチで話そうとする意味がわからない。だからそれについて話すために「え…魚?ふれあう?」なんてことを考えるなんてはっきりいって時間の無駄だ。

そこで多くの人は、こういうときにかぎってまともな推論を行う。

「哲学ってやっぱり時間の無駄だ」

 

まぁ、そうかもしれない。でも、ちょっと振り返ってみたい。

 

上の問いが出た背景として、僕が姪をかかえて池の鯉にエサをやっていたときのことがあった。

鯉にエサをやるというのは面白くて、パンくずを投げると鯉がたくさんやってきてガポガポいいながら吸引していく。

パンが着水するやたちまち大きな口々に吸い込まれる様はコインを投げて賭け事をしているような気分を起こさせ、色とりどりの鱗が水面ちかくでキラリ、キラリとするうちに理性のバランスが危うくなる気さえした。姪ちゃん、おじさんはこんな気持だったんだ。

 

しかしふと、虚しくなる。パンを投げてるだけである。

でも、魚とふれあうってなんだろう。

姪も僕も、鯉を見てすごく満足していた。でも、触ってもいない。パンが尽きたら何をしていいか分からない。

「魚とふれあうってどういうこと?」

 

コガ「犬とかはわしゃわしゃーって触って可愛がれますけど、魚にそれやったらまず魚に害あるしこっちもヌルヌルになるだけですよね」

(以下、適当に再現しながらお送りします。事実とは異なる可能性が大です。)

 

テツコ(男)「魚との触れ合いで、僕、スキューバしたときのこと思い出したんすよ。海の中に魚のエサをもって潜るんですけど、めっちゃよってくるんですよ、魚。でも明らかにエサにしか行ってなくて、僕おいてけぼりっていうか。悲しかったっすね」

 

「すれ違いじゃん」「でもテツコ海似合うわ」

 

コシ「僕思ったんですけど、こっちが可愛がりたいとか、満足するだけじゃダメじゃないですか?なんていうか、双方向性みたいなのがないと自己満っていうか」

 

「あー、それはある」

 

トシ「うん、たしかに。私も同意見です。双方向性、必要な気がします。」

 

ヤナギ「でも、犬でかんがえても、向こうがなでて欲しいと思ってるか分からなくないですか?」

 

シバ「え?いや、分かんなくてよくないですか?というか分からないですよね、絶対。

だから、向こうがこうして欲しいだろうなーってことをやってあげて、喜んでたら成功っていうか」

 

「そうかー?」「なんか切ないね」

 

トシ「それは人間でもそうですね、フフフ。まぁ、人間の話はねぇ、皆さん友人や恋人もいるでしょうからここではこれ以上つっこみませんけど」

 

ホリ「犬とか魚はちょっとどうかと思うんですけど、人間って言葉があるから触れ合うことってできる気がします。

身体的な触れ合いって、動物だとそこ止まりなわけで。だから人間だと、言葉を介したやりとりもあって、いつも出来てるかっていうと怪しいんですけど、それでも言葉には本当のふれあいの可能性が残されてるっていうか」

 

トシ「言葉ね、うーん。私もね、それ大事だと思います。」

 

「言葉かー」「言葉ってそんなにすごい?」「イルカとかエコーで会話してるよね」

(しばらく言葉についてのやりとり)

 

コガ「ちょっと皆さんの話を聞いて僕の違和感を振り返ってみたんですよ、なんで魚のときはもどかしいのかなって。

確かに人間は言葉を通して触れ合ったり解り合ったりできそうで、でも動物だと触るしかないですよね。なんていうか、レベルが下がると、身体的な接触に頼るしかなくなってくるっていうか。

犬も、ウサギも、鳥も、トカゲもそうですけど、でもその下、魚になるといきなり触るの拒否される感じ、何なんですかね?」

 

シマ「いやコガさん、僕は○○水族館でサメの触れ合い体験やったんですけど、サメを水槽から出して触らせてくれるんですよ~。なんか触れ合ったなーって思いましたね。」

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「え?」

 

シマ「いや、だから、魚だってなでたりして触れ合えるんですよ。できるんですよ。」

 

ヤナギ「なんかそれって結構一方的な感じじゃない?」

 

シマ「そうかなー?触りましょうよ、みなさん。この水族館行くといいですよ。」

 

ヤナギ「でも私だけかもしれないんですけど、相手が自然な状態であることってすごく大事だと感じていて、人間のステージ?世界?に無理やり引っ張り込むタイプの触れ合いってなんか嘘っぽいっていうか…」

 

コガ「あぁ、さっきのスキューバの例を思い出したけど、たとえばイルカと一緒に泳ぐとか、それがイルカと触れ合うための、唯一とはいわないけれど、ひとつの納得できる方法な気がします。

イルカ生き生きしてるし、多分。そういう状態以外で交流してもたしかに嘘っぽいっていうのはわかります」

 

テツコ「でもコガさんのって、こっちから向こう側の世界に入っていくタイプですよね。向こうをこっちに引き込むのもちがうなと思うんですけど、こっちから向こうに行くのもどうなんすか?」

 

ツッチー「その感覚わかるなぁ。ちょっと昔読んだ文章思い出しました。どういうのかっていうと、釣りの話なんです。

水面の上では人間が人間の世界を持ってる。水面の下では魚が魚の世界で、魚なりに生きてる。おたがい別の層で、それは重ならないんだけど、釣りで魚がエサをくわえた瞬間、別々だった世界が釣りという行為においてピタッと統一されるっていう。

わかります?魚が逃げようとする力と、人間が釣り上げようとする力のその拮抗において、本当の触れ合いがあるかもしれないっていう話です。変なこと言ってるのは自分でも分かってますけど。」

 

(釣りの話についてのリアクションがつづく)

「人間が釣る側、魚は釣られる側っていうのは逆転しませんよね。釣られたいと思っている魚はいないっていうか。釣りは双方向性はあるけれど平等性が無いというか」

「やっぱ平等で自然な触れ合いとかは幻想で、結局自分が満足する触れ合いしかできなくないですか?」

……

 

ホリ「魚って、水面をへだてた向こう側にいるじゃないですか。その超えられなさみたいなのってなんだろう。これって魚特有の問題なんですかね?」

 

コガ「水面のこっちとあっちの世界が異なるっていうのなんか切ないですね。でもそう思うってことは、魚だろうがなんだろうが触れたいんだなっていう。」

 

トシ「ちょっとズレますけど、『自然と触れ合う』っていう言い方しませんか?山登りとか、キャンプとか。僕の感覚ですけど、どこかで植物や地肌といったものに実際に肉体的に接触しないと『触れ合う』っていうのがしっくりこない気がするんですよ。

だから魚でいうと、エサをやるよりは釣りの方がしっくりくる感じするなぁ。

でも人間同士だと、んー…どうでしょうかみなさん。身体的な接触は要らないですかね?言葉だけでいいんだろうか?言葉だけのほうがいいんだろうか?」

 

ヤナギ「私は動物に対して行われる身体的ふれあいが、こっちからの一方的な押し付けだと思ってるんで、人間でもそれは同じで、だから言葉が大事っていうか。身体は多分ふれあってる感があるからそれが怖いですよね。」

 

トシ「僕らここでこんなに語り合ってますけど、一切わかり合ってない可能性も…ありますよね。」

 

「えーーー」

 

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人とも魚とも、触れ合うことはできないんだろうか。

触れ合うことと、わかり合うことは同じだろうか。

触れ合えないこと、わかり合えないことは、よくないことだろうか。

 

触れることも、わかり合うことも出来ないかも知れないのに、

なぜ話すことはこんなに楽しく思えてしまうんだろうか。

 

昨日たまたま水槽の中の金魚を見た。

ガラスの向こうには行けないけれど、そのことはもうあまりもどかしくなくて、僕とはずっとすれちがったままの金魚でいてほしいとさえ思えた。

 

哲学対話をやるとどんどん変態的になっていくのかもしれない。それは、賢くなるよりずっと気持ちのいいことだ。僕の場合、変態的になると、世界が住みやすくなる。

もちろん、捕まる系のガチ変態じゃなくて、あくまで変態「的」という比喩なのだが、それが何なのかよくわからない。

こんなこと言ったらもう誰も僕と話してくれないかもしれないが、哲学対話は変態的でいられる自由がある気がするし、そういうときほど僕はいきいきとできるのだ。