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てつがくは かくせいざいより きもちいい

昨日、ありがたい一句をいただいた。
実際は句ではなかったのだが、ずっと五七五で渦巻いている。
「てつがくは かくせいざいより きもちいい」
 
哲学、というか「考えざるを得ないこと」には特有の苦しさがある。
僕の場合は、小学校低学年のときには「宇宙人につれていかれること」とならんで「母が母ではないかもしれない」(身近な人が本当に本物か)という奇妙な妄想であり、次に中学年になるとそれらに「死」が加わって、最後に引っ越しをして中学生から「見知った場所や友人が根こそぎ無くなる」という事が決定的となった。
 
こういうへんてこな問題は、きまって夜やってくるので、僕は寝るのが苦手だった。
当時の自分にとって寝るいうのはかなりの努力を要するものであって、一度寝たとしても悪夢によって眠りは浅くされた。
世の中の子どもの悩みは、「そんな悩みは、たくさん遊んでぐっすり眠ればきっと忘れるよ」と語られることが多く、そこでは循環論証が無責任に放置されている。
 
いつも体をどっちに向ければ早く寝れるか試していたが、妹なんかはとっくに寝てしまっていて、その単純さを見るにつけ自分以外はロボットじゃないかと思うこともあった。
いつだったか、なぜすぐ眠れるのか聞いたのだが、「私は妖精さんに守ってもらっているから」ということらしく、眠りに際して彼女なりの「まじない」があったのだろう。
 
しばらく後、中学生ぐらいになってから「あのときの妖精さんってどんなのやった?」と確認したら「お兄ちゃんが信じるか試しただけ」という薄情というか無情な答えが返ってきて、やっぱ他人はロボットだと思うと同時に、自分もロボットじゃないか試されていたのかと今になって思う。
嗚呼、We live in ロボットワールド。

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他人は時々ロボットに見えるが、自分にとってリアルな苦しみたちは決して裏切らずに苦しみでありつづける。だからある意味で他人よりも信頼できてしまう。
僕としては他人のように突然ロボットに見えて笑うしかなくなる存在というのは意外と救いなのだが、ずっと居座り続ける苦しみはどうしようもなくリアルでありつづけるわけで、救いのない泥沼だと分かってはいるが見て見ぬふりするのは中々難しいのだ。
 
僕のようにふらふらした人間は、こういった苦しみ、例えば死に向き合って苦しみ抜いた一握りの強い本物の人間だけが「死」語る権利があると考えてしまう。
 
それで思い出したのだが、20歳ぐらいのとき哲学好きの人とネットで知り合った。僕は大学の哲学科に行ってて、彼は薬学系の大学にいた。めちゃくちゃ明るくて、コミュ力の化け者みたいな奴で、一時期テレクラばっかりやってたと笑っていた。まぁいつもは馬鹿な話をしてたけど、ふと厭世的な瞬間も見せるところもまた魅力だった。
そのいつもの馬鹿話の中で、高校まで兵庫にいたこと、阪神淡路大震災で大切な人を失ったことをさらっと言った。
聞き間違いだと思ったけれど、うろたえて急にへりくだった僕に対して、彼は怒った。そのことは良くおぼえている。
 
それを思い出すと、やっぱり哲学は平等であるべき、というか哲学するときは平等になれるんなら素晴らしいなと思う。
特別な経験というのは結局、「一体なぜそれが(私にだけ)起こったのか」という、世界に対する驚きであって、それは震災だろうが、生だろうが、失恋だろうが、受験だろうが、障害だろうが、なぜそうなっているのかという驚きに支配されていることにおいてはみな平等な驚きメイトなのだ。僕だって誰だって同じなのだ。
 
 
突然だけどガウタマの話をしたい。ガウタマ・シッダールタという悩み抜いた修行者の話を。
彼は修行に関して「中道」というすごく良いことを言っている(倫理の授業でやった)。それはどういうことかというと、
 
”めっちゃ頑張って苦しんだとき、あー修行したなって思うけど、いつの間にか苦しむことが目的になってきてさ。苦しまないと修行じゃないって思いはじめるんだよね。悟りが目的なのに苦しみが目的になるっていうか。
でも、自分を追い込まないで楽にしてれば修行なのかっていうと、それも違う気がしてさ。正しい修行ってなんだろうね…”

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ガウタマは人が生きるために他の命を奪わねばならないことや、老いや死が避けられないことなどに心の底から驚いて、うちのめされた人だ。
 
そのことが一体なんなのか考え続ける中で、最初は自分の体を痛めつけて「生」を否定することでこの問題から解放されようとした。
しかし一向に状況は改善されないどころか、自分を苦しめて満足する自分を発見して落胆する。だがこれ以外に何をすればいいのか?今まで通り、釈迦族の王子として快楽のうちに生きればいいのか?
 
どうやら「中道」というのは、苦と楽のどちらにも固執しないこと」らしい。これは苦と楽の折衷案に落ち着くことじゃなくて、どちらに固執することも拒みつづけるという結構ダイナミック&ハードな思想だ。ダイ&ハード!
哲学も「これが哲学だ!」って言えた瞬間死ぬ生き物なので、誰でも「なんかちがくね?」って常に言えないとウソくさい。その意味で哲学は、ブッダの「中道」つまり「~しなければ修行ではないと固執すること」への否定と似てる気がする。
 
もしも、王子の生活の中で感じた快楽と虚無を感じた上で王子の位と生活を捨てて修行するほど覚悟と経験がないと、ガウタマの言う本当の仏教は分からないよ…なんていわれたら、人生賭けて仏教やるぞ!って息巻いている僧侶志願者たちは真顔になって現地解散である。
哲学も、特別な経験を生き抜くことなしにやれないのだと言われたら、そこは抵抗したい。
 
哲学対話のときに、よく「先生だって答えをしらないんだから平等に話しましょう」なんていうけれど「先生だから答えを知っている」が偽なら、「親を亡くしたから苦しみを知っている」とか「家族が障害を持っているから障害について語れる」も偽であるかもしれない。違うとしたら、世界への驚きに或る仕方で射貫かれているかどうかであって、「一体それが何なのか実はわからなくて苦しい」という点ではきっと平等に語りうるのではないか。
学校ではつい「配慮」とか「安全」ということを考えてしまうけれど、変な配慮によって、驚きへの可能性や平等性が閉ざされてしまうのならそこにはもう哲学することは現れないかもしれない。
同時に、おそらく楽しさからも遠ざかってはならない。なぜなら、もし自分のなんらかの「(つらい)体験」を自主的に話すということがあり得るならば、そこは自己開示が強制される場でもなく、いわば「語り部」のように自分が特権的な地位を保証される場でもなく、単に自然と話したくなってしまう楽しい場だからだ。
言ってもいいし、言わなくてもいい。言ったからといって、全員がしんみりする必要はない。けど、してもいい。どっちやねん。
 
ファシリテーションというのは、否定の繰り返しだ。
これが正しいというのが基本的に無いから不安だし、面白い。
哲学することもそうだ。
 
なんて、こういう具合に昨日から小難しく考えているのだが、思考の空白ができるとすぐに「かくせいざいより きもちいい」という底抜けにアホかつモラルのかけらもないワードが浮かんでくる。
脳髄に刺さっているのだ。
だから意味もなく突然おかしくなる。
勘弁してほしい。