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子どもを恐れよ、そして武装解除に哲学を

先月、今月と、いわゆる「子ども」がこれまたいわゆる「哲学」をする場に行ってきた。「子ども」たちは、みな小学生だ。

 

去年同じような機会があったが、子どもでもここまで考えられるのか、ということに驚いた。

と同時に、「子どもの賢さに大人が驚く」という予定調和を見た気にもなった。

テレビドラマでも子役の名演技に大人が感心している。

だがこのような驚きや感心は、そもそも大人が子どもをあなどっているから成立するのだ。ここに子どもの哲学の本質はないだろう。

「頑張ってね」とおなじくらい空虚なノリで「すごいね」と言ってしまうが、それだけで終わってしまうのも違う気がする。

 

哲学は、子どもにとって、褒められるツールに成り下がるべきではないと思う。

哲学は一般に大人でも難しいこととされているので、それを見抜いた子どもにとっては格好の褒められツールになる危険性が高い。

だからこそ、それをうまいこと防止しないといけない。

そうして残る哲学とは、何をすることなのだろうか。

 

子どもの話だからこの際言っておくと、僕は基本的に子どもが恐ろしい。

彼らは遠慮がなく、がさつで、下品である。正直であると同時に、平気で嘘を隠蔽し、「純粋さ」というイメージを武器にして無罪さえ装う。

 

嫌いじゃないけど、手強いのだ。

 

それに制限がなければいつまでも遊び続けるし、疲れるということをしらない。

もちろん勉強ばかりしている子もいるが、それは褒められたいから(あるいは罰をおそれるから)だ。実際に必死で中学受験の勉強をしている子どもを見ていると、その子らは親から褒められることに必死であり、あるいはその愛を失うまいと必死である。

一方、「こうすれば大人は褒めてくれる、チョロいぜ」、ということも知っている。

悪魔である。

 

ともかく、子どもほど純粋に快と苦に忠実で、その真っ只中で生きている存在はない。

だからこそ大人は子どもを自制心がなく、未熟だと考える。

 

ところが、むしろ逆なのだ。

大人は、未熟さを克服した子どもではなく、いわば家畜化された子どもである。すました大人も一皮むけば恐るべき子どもであることは、自分を振り返れば誰もが分かることだろう。

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大人になって子どもと哲学をすると、そんな問題を思い出させてくれる。

だから「こんな非常識なこと、子どもの前で言っていいんだろうか」という意見は、子どもを脅かすどころか、かえって安心させたり感心させたりする可能性だってある。

「あの犬、狼のような意見を言ったぞ、やるなぁ」というわけだ。

そんなことは教室では起きない。家庭でも起きない。大人は子どもを大人化することに必死だからだ。

悪いことではない。むしろ相当な努力を要する大変な仕事だ。

けれど、大人って本当に正しいの?っていう疑いの声を、子ども同士で出せる場所もないと不公平だ。そんなときに、あらゆることを疑って探究できる哲学が必要になる。

 

そんな場で大人が何かやれるとすれば、家庭や教室とは違う振る舞いをすること、たとえば「大人であることに縛られてないぜ、ヘイ」と示すことだろうと思う。

子どもではないが大人でもない変な存在、中間者のようになって、奴らを混乱させるのだ。それなら楽しそうだし、楽しそうだと思える時点でちょっと子ども的になってるから合格っぽい感じがする。

 

大人の振る舞いがそのようなものでありうるとして、それと同時に強調せねばならないことがある。

当たり前すぎて取り立てて言う人は少ない気がするが、それは、子ども自身もまたつねに大人であることから逃れられないということだ。

冒頭に挙げたように、子どもは既に大人化しつつあって、もうそれは防ぎようがないのだ。

だから、哲学は、子どもが真性に「こども」になれる場でもある。

「こども」であることは、子どもにとっても既に失われてしまっているのだと主張したい。

だから大人へのおべっかから解放され、家族や友人との社会生活をも休止できるような…事実問題そんなことが不可能だとしても、そんな気になれるような場を作ることが重要だろう。哲学する場は、そのようなものになるべきだ。

 

だから、ただへりくだって子どもに近づくだけでは不十分かもしれない。それは僕にはできそうにないすばらしい事だ。じゃあ何ができるかというと、子どもを子どもでなくしている何かに対して注意深くなるような、そんな見張り役程度ではないか。

…なんて難しく考えてるうちはまだまだ修行が足りないのだろう。