「時間」ですよ

 

3月、卒業シーズンだ。

僕も縁のあった学校で卒業式や謝恩会というものに出席した。

 実は今日もそうだった。

 

こういう日は、何か書かなければいけない気持ちになってしまう。

人は、と言って差し支えないと思うが、とにかくいまこの時間を忘れたくないという欲望に駆られてどうしようも無くなることがある。

そんなとき、まあ学生ならば気の合う友と飽きるまで過ごせばいい。

しかし僕は幸福な家庭をガラス越しに見つめる庭師だ、一人で書こう。

 

昼から高校の謝恩会に行った。

いつもの制服を着た生徒たちがいた。いるのはあたりまえだが、なんだか違って見えた。

 

大人になったとか、そういうことじゃない。

おそらくこれは祭りの日に同級生に会った時のような感覚に近い。

といってもそれはいつもとちがう特別な服や持ち物で作れるような感覚ではないと思う。

 

じゃぁ何が違うか?

自分が卒業生になったつもりで考えてみよう。

卒業の日。たとえば校舎の時計は、自分がこれまで飽き飽きするほど見てきた物であると同時にこれからもしかしたら二度と見ることがない物として現れてくる。

つまりは、「少なくとも今はまだこれまでと同じように目の前にある」のだが、同時に「今立ち去ればもう目の前から消える。または、これまでのような関係において再び出会われない(ありきたりのものではなく、懐かしいものとして見てしまう)」ものなのだ。

クラスメイトだって同じだ。どんなつまらない時間でも一緒だったのに、もしかしたらもう二度と会わないかも知れない。

渡り廊下とか、校庭の砂粒ひとつとっても感情があふれ出る直前にまで達しそうになる。窓からみえる変な木や通学路でさえもそうだ。

見るもの触れるものみなエクスタシー。

フェティシズム(物神崇拝)を極めたマスターフェティシストの境地である。

 

ということはつまり、「今」というものがとてつもなく重要になる。

今見ておかなければ、今声をかけなければ、無数の情景とか人生とかに対してなんだか取り返しのつかないことになるかもしれない。

 

日々の暮らしを支配する、あの24時間の平等な時間とはまた違う時間がここにはある。

あの人ともう会わないかも知れない、ここにはきっと二度と来られない、来たとしても意味がかわってしまっている…そんな重大すぎる「今」における時間とはどんなものだろうか。

 

今、たとえば2017年3月21日の13時12分27秒がもう二度と来ないことは誰でも知っているし、そんなものはまぁはっきりいってどうでもいい。

数字が同じように並ばないというだけだ。

 

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しかし、自分が18年間(高校生のつもり)生きてきて、同じようにこれまで生きてきて少なくとも3年間を共有した存在がいて、いままさにここで自分の人生からほとんど失われつつあること、

そしてその両方の事実が不可逆で代えの利かないものであることは、日付の数字が二度と同じものにならないことよりも意味不明なぐらい重大なのだ。

 

ハイデガーという人の本『存在と時間』では、なんだかとらえどころのない「存在」というものがどうやら時間を通して理解されるという話をしているのだが(適当)、裏からいえば、やはり「時間」というものも―当然知ってるつもりではあるのだが実は目の前のかけがえのない「存在」を通してしか経験されないとも言える。

だって、時計をみたり、カップ麺が出来るまで待てるからといって時間が「分かる」なんておかしな話だ。

そんなもんじゃなくて、僕がひとりの生徒と話すというそれだけで、というより一瞬の目線の内に、本当の時間というものをいやおうなく理解させる力がある。

 

生徒も、先生も、保護者も、僕も、この祝祭によって自分の人生(これまでの、ではなくこれからの、も含めた人生の物語)における「時間そのもの」を相互に取り戻させる。

時計やスケジュール帳によって切り刻まれていない時間そのものを。

単なる数字の並びとしてではなく、本当に繰り返すことのできない私とあなたが共に存在するこの時間を。

しかも!それがすばらしいからそうしたわけではなく、なんだかそうなってしまうのだ。

卒業式というものの中身は、そのような時間の復活祭とでもいうべき奇跡的な祝祭なのだ。

 

ところがまた。

この祝祭の参加者たちは、その同じ時間の力によって、苦しめられる。

卒業したら次は何々、いついつまでにあれ何とか、何歳を過ぎるとどうこう…

いまここで自分のかけがえのなさと対峙するとき、人はいとも簡単にあの忌まわしい「人生設計」に陥る。

 

(正直に言うと、そのような計画の一里塚として卒業式をとらえている人の方がほとんどだということは分かっている。あるいは苦痛でしかない場合もあることを。)

 

だが二度と繰り返せない生を送るというその一回性は、他者に先んじるとか、失敗しないとかいう「設計」によって克服できはしない。

また、取り返しの付かない失敗をしても、生の一回性が損なわれることは決してない。ヤセ我慢だけど、そう言ってしまおう。

 

ところがふつうは、生の一回性がヘビーすぎるが故に、人生設計をすれば安心なんだと思うようになる。あるいは悲劇的なことだが、人生を設計したうえで失敗して苦しみを背負ってしまう。

 

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しかし、過去から未来へ流れる数直線的な時間の中で自分のことをどう位置づけたとしても、そんなものをふっとばしてチャラにしてくれるような全く別の時間、つまりお行儀良く並んでいない時間そのものの爆発みたいなのが突然やってくることもある。そのことは信じていいと思う。

 

僕レベルになると、毎年の卒業式だけでなく、いろいろな行事で人々の人生時間の爆発をあびてむちゃくちゃにされにいくのである。

ただし同級生の結婚式だけはもうそろそろきついかもね^^

って書こうとしたら、だいたい終わってた。