ドナトロジー(ドーナツ学)への寄与

『失われたドーナツの穴を求めて』(2017年、さいはて社)という奇妙な本がある。

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プルーストの『失われた時を求めて』にかけて洒落ているのだろうが、まあ語呂が悪すぎる。

「とき」に相当する箇所に「どーなつのあな」を充てる力業には、むしろすがすがしさえ感じる。

 

装丁をごらんいただくと分かるが、これが凡百の「失われた~」パロディ本のひとつでないことは容易に見てとれる。

私もいざ本を開いて奥田太郎氏の「第0穴」を読んだところ、その直感はいよいよ確かなものとなった。

 

 タイトルに冠された「失われた」とは、端的に言うと「問いが失われた」ということであり、問われるべきものが問われていない「忘却」の状態を指摘している。これは、長い哲学の歴史において真正面から「存在」が問われてこなかったことを嗅ぎつけてしつこく問い続けたハイデガーの指摘、すなわち「存在忘却」にも相当する偉業といえよう。
 
ドーナツに穴があるのは当たり前
あるものがあるのは当たり前
 
この「当たり前」をとりはずして、「穴」や「ある」について問うことがいかに難しいかを示すのは、哲学者の面目躍如といったところだろう。 
 
この著作は、ただ読むだけのものではない。読者の専門とする分野からドーナツの穴の謎についてアプローチする「ドーナトロジー(ドーナツ学)」への招待状にもなっているのだ。そこで私も自分なりの寄与をせずにはいられなくなったのである。
 
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私の専門はこの際おいておこう。
どうしても書きたくなったのは、日本におけるドーナツ史のことだ。『失われた~』では、英国と中国における歴史学的アプローチがとられているが、わが国におけるドーナツ史も取りあげずには済むまい。
 

さて、ドーナツというものは戦後にアメリカ文化と共に入ってきた…多くの方はそう思われはしまいか。

ところが「小麦で作った生地を油で揚げた」程度のものを「無かった」と強弁する方が不自然であろう。

ありそうでなさそうで、やっぱりある。そんな「ドーナツ型菓子」について、私の知るいくつかの説を紹介しよう。

 

1.聖一国師伝承説

まず、鎌倉時代臨済僧である円爾(えんに:1202-1280)を外すわけにはいくまい。後に天皇より国師号を贈られ「聖一国師」となる、名僧中の名僧である。

 

円爾の生まれるころ、平清盛(1118-1180)によって始められた日宋貿易が隆盛を極めていた。北方の騎馬民族に圧迫された中華王朝は、南部へと押し込められており、現実から目を背けるような退廃的な文化や超然的な文化が栄えていた。その濃密な芳醇な文明から、武家社会に移ろうとする日本社会は強烈な影響を受けたのである。日宋貿易は、遣唐使以来の本格的な日中貿易であり、目の覚めるような成果を生み出した。

 

そこで活躍したのが僧侶である。

当時の「僧侶」という存在は、仏典・漢籍という中華圏共通の文化を理解し、必然的に中国語も読み書きできるゆえに学者であるだけでなくいわば外交官でもあり、商品や文化を厳選して取り扱う目利きでもあった。

円爾もそうした優秀な知識人の一人であり、中国最先端の文化である禅宗を学んで意気揚々と博多に帰ってきたのだった。

 

だが円爾の持ち帰った叡智は禅だけではなかった。

たとえば明治初期に来日したド・ロ神父は、長崎の小島で貧しい農民達にパスタ作りを教えながらキリスト教も伝えたのだが(『西麺伝来記』)、円爾もまた「粉もの」というジャンルを持ち帰って、禅の教えとともに広めたのだ。

 

円爾の伝えたものそれはすなわち、うどん、そば、まんじゅうである。  

 (福岡市博多区承天寺」にある石碑。御饅頭所(右)、饂飩蕎麦発祥之地(左))

 

小麦などの「粉をひく」という食文化は円爾ら禅僧とともに博多に入ってきた。ゆえに、小麦から作られるドーナツのようなものも入ってきてもおかしくないという主張がなされるのも無理からぬ話である。

しかし、ラーメンについてはようやく江戸になって水戸光圀公が始めて食べたと言われるところをみると、粉を卵で「つなぐ」という発想はまだ無かったはずだ。

それに、卵のごとく生殖に由来するような、あるいは命のカプセルをそのまま頂くような殺生な食物は、仏教文化圏ではあまり好まれまい。

ゆえに、ドーナツの存在については疑問が残る…というのが常識的な推論といえる。

 

ところが、禅の元祖達磨大師から数えて六代目にあたる中国の高僧、六祖慧能(えのう)の日常を伝えた『六師正伝』(作者不詳)には、ドーナトロジストとして決して見逃せない記述がある。

慧能が食事中に弟子達を挑発するように次のように言ったという、

「食蓮而勿食蓮孔」(レンコンの穴を食う事無くレンコンを食え)。

 

 

無理難題である。

しかしこれこそまさに「公案」とよばれるものである。すなわち、あえて非常識な問いに取り組む事によって常識的な論理にとらわれた自我を解放し、悟りへと導く装置なのだ。

慧能の後継者として七祖に選ばれたのは馬祖道一(ばそどういつ:709-788)だが、実はこのとき食卓を共にしていた若い僧侶こそ馬祖であった。そしてこの「食蓮」の公案によって、禅の道を成就するに至ったとも言われる。

その馬祖が、六祖慧能の軽妙な公案になぞらえて作らせたのが「六祖導道」あるいは「六道(六導)」という菓子である。

 

この菓子は慧能を祀るものであったが、しだいに他の禅師を祀る際にも捧げられるものとして受け入れられていった。しかしそののちかの臨済禅師がこれを廃止してしまったという。

「六道」を以て禅師を祀り、あるいはこれを食すなどすれば悟りに近づけると考えて禅の道を根本から誤る者が出始めたからである。

そのため臨済は「六道」を「無道」と改めて戒めとし、以後作ることを厳しく禁じてしまった。ゆえに本来の製法や形状の実際は闇の中へと消えてしまったのだ。

 

ところが消えたと思われた「六道」にはもう一つの運命があった。実は留学僧を介して、その存在と禁止令がほぼ同時に日本に伝わっていたのである。祖先崇拝を大事にする日本では禅師を祀る菓子はどうしても作りたい。だが作ってはいけない。だから「どうにもしようがない」のである。その歯がゆさから、「無道」にかけてこの菓子「どうなし」と呼び変えて密かに再現しようとした一派がいるらしいが、詳しくは分かっていない。

 

しかし話はこれで終わりではなかった。

 

中国から伝来したありがたくも実体のわからない菓子に商機ありと考えたしたたかな博多商人がいたのだ。名を御簾堂夏吉(みすどうなつきち:生没年不詳)という。

 

夏吉は博多湾から引かれた石条堀(せきじょうぼり:いまの博多区石城町3丁目付近か)の海運業者とされる。もとは百姓の生まれだが、その才覚を見抜いた博多の豪商神谷宗寿(かみやそうじゅ)のもとで中国貿易のイロハを学んだことが分かっている。

宗寿のツテで臨済宗聖福寺の老僧談匀(だんきん)禅師にも師事するなど、耳ざとい中国通として評判の高い人物だった。壮年に入って京都の御簾堂家に婿入りしているが、生活の苦しい貴族が商人の財力を見込んで末娘などの婿にむかえることはしばしば見られたことである。

 

当時、栄西禅師が聖福寺に植えた木の葉から煮出す汁を僧侶と共に飲んでいたのだが、ありがたいものとはいえこれが非常に苦いのだった。

 

夏吉はつねづねこのありがたくも苦い飲み物に合わせる絶妙な菓子がないか思案していた。そんな菓子があれば禅とともに大ブームになるに違いないと確信していたが、生半可な菓子では自分だけでなく宗寿や談匀の顔がつぶれることも分かっていた。

 

そこで聞いたのが「どうなし」の話である。

 これを日本で人気の高い馬祖に由来するありがたい菓子の再現とし、例の木の苦汁とあわせて最先端の中国文化を味わえるならば、まず博多での流行は必定。

さらには『興禅護国論』によって幕府の後ろ盾を得た栄西禅師を頼れば、まずは鎌倉の将軍に、その後あわよくば帝に献上する名誉も得られるのではないか。

夏吉の妄想は高まっていた。

 

もちろん栄西が中国から持ち帰って種を蒔いたというこの木こそ茶の木であり、僧たちが飲んでいた汁とはまさに「茶」であった。

栄西は帰国してまず福岡の背振山(せふりやま)と聖福寺に茶を植えたのであり(『喫茶養生記』)、法然の論敵としても有名な明恵(みょうえ)がこの原木を京都栂尾に移植したことから京都でも大いに茶が流行したという。

これが後の「茶の湯」の源流となったのは言うまでもなかろう。

 

余談だが、だれもが飲みやすいものが「甲」の、すなわち一番の飲み物ならば、茶はもともと飲み物としてはどこか難があるような「乙」の、すなわち二番手に落ちる物であった。

舌の肥えた高僧たちがしぶしぶ飲んで「乙也。」と苦々しく言っているのを見た出入りの商人達が、これを褒め言葉と勘違いして自分たちの隠れた文化にしていったという。後にその伝統の中で育った堺の商人千利休が大成した茶の湯にも当然「乙」の精神が活かされている。読者の中には「乙」こそが日本の誇る文化だと考える方も多いだろうが、もとはといえば商人の勘違いだったのである。

  

「どうなし」に戻ろう。

新しもの好きの夏吉は、博多に中国から入ってきたばかりの「饅頭(マントウ、まんじう)」なる菓子に目を付け、これを蓮根を模した形に作って穴を開けようと考えた。「食蓮」の故事にあやかったのである。

いくら蓮根状に作っても穴がつぶれてしまうため、中央にひとつだけ穴を残すことになったらしい。最終的に、竹筒に油を塗ってそこに饅頭生地を巻き付け、その棒状のものを蒸しあげることで完成した。

今から見ると何のことはない。早い話が小麦の生地でつくった竹輪(ちくわ)である。

  

夏吉はできあがりを筒から外して切り分け、商売の成功と僧たちの仏道成就を願って、「道成し(どうなし)」と名付けたそうである。このとき切り分けられていく「道成し」を見た談匀は、表面が菓子で中身は空っぽであることをいたく気に入り、「無胴哉。」(なるほど「胴が無い」=胴無しだな!)と言ってにわかに爆笑してしまったので腰をしたたか痛めたという。(『安国山聖福寺史』巻十二「談匀」)。

 

馬祖が六祖慧能公案による導きに感謝して「六道」と名付けた菓子が、一度は厳しく禁じられながらも時空を超えてまさに禅のために博多の地でよみがえったのは歴史の偶然か、はたまた必然であろうか。

しかし運命というものはひとつ与えてはひとつ奪うらしい。不幸にも談匀は腰を痛めたあとで寝たきりになって間もなく没し、夏吉もこれからというときに海外からの流行病に倒れ、談匀のあとを追ったのである。

 

二人の粋人が消えたあとに残されたのは、竹筒が刺さった饅頭の列である。

再現品とはいえ、もとは禁制の品。聖福寺も夏吉の関係者も、互いに変な空気になるのを恐れてこの件は黙殺されたそうである。

こうして帝への献上どころか博多での普及も叶わないまま終わった。「道成し」は何も成すことのないまま、歴史の中に切り開いた道を再び無くしてしまったのである。

 

 
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夏吉の性急な試作品をドーナツと呼べるか私も心許ない。しかし「食えない穴をもった菓子」という「ドーナツ性」を宿している以上、これはドーナツのイデアを分有したドーナツ的なるものと言わざるを得なのではなかろうか。

 

最後にドーナツ学普及の緊急性を痛感させられた出来事を紹介したい。

10年ほど前、今はほぼ駐車場になっている旧聖福寺領の遺構の再開発で「談匀道成」と書かれたおびただしい数の木箱が掘り出されたことを福岡の地方紙が報じたが(「西日本新聞」2007年2月30日付夕刊)、翌日私が知ってすぐ詳細を問い合わせた時には、土地所有者によってすべて廃棄された後であった。

それでもできるだけ詳しく聞いたところによると、木箱の中にはカタカナでドウナシと書かれたものもあり、さらに当時にも「シ」と「ツ」を書き分けられない者がいたらしく「ドウナツ」と書かれたものもあったという。

 

もしもこの木箱が残っていれば、もちろん発音上・表記上の偶然にすぎないにしても「ドーナツ」の元祖は13世紀の博多ということになったかもしれない。

ドーナツ学への関心が高ければ、これらの木箱が失われることもなかったであろう。

(続く)