【哲学的レビュー】「Amazon Echo」

明けましておめでとうございます。

 

去年のちょうど今頃はこんな事してました。

p4bear.hatenablog.co

 

さて、新年さっそく何か書こうと思って思い出したのが、

クリスマス前にようやく届いたこれ。

Amazon Echo (Newモデル)、チャコール (ファブリック)

Amazon Echo (Newモデル)、チャコール (ファブリック)

  

アマゾンエコー(Amazon Echo)、いわゆるスマートスピーカー

スピーカーはただ音を垂れ流すだけですが、スマートスピーカーは人間が声で命じると音楽を止めること、ネットのニュースや曲を拾って流すことなどができます。

え、初めて知った。っていう人にはこちらに詳しい解説があります。

www.tamashii-yusaburuyo.work

というわけで、ふつうのレビューはいまさらなので、哲学的にレビューしてみましょう。

 

 

スピーカーは、その誕生以来いわば「口(くち)」であったが、スマートスピーカーは人間の声を聞く「耳」でもある。

もちろんスピーカー部分に集音機能は存在しないので、別にマイクが仕込まれている。とはいえ、人間でいうと耳と口と、それらを制御する脳(AI)がそろったというところであろう。だがまだではない。顔ではないのだが、話しかけるということをする以上、なんらかの人格のようなものを意識してしまう。

 

というのも、このスピーカーには「アレクサ」という名前があって、その名前に反応して女性の声でしゃべるからだ。この時点でちょっと人っぽい。

たとえば「アレクサ、ビートルズの曲をかけて」と声をかければ、「ビートルズの曲をシャッフル再生します」と答えて"Back in the USSR"がかかるなどする。

しかしアレクサを裏であやつっているamazonのライブラリにない曲(とくに邦楽)を指定したりすると、「すみません、今はできません」とか「ちょっとよく分かりませんでした」などと返してくる。

あまりに連続して「ちょっとよく分かりませんでした」などと答えられると、いくら冷静な私でもさすがにイラッとしないでもない。

北野武の映画「Brother」では、日本人には分からないと思って英語で差別的発言をしてきたギャングたちに武が突然銃弾をあびせ、

「ファッキンジャップぐらい分かるよ馬鹿野郎」

と捨て台詞を吐く有名なシーンがある。(1:00~1:17ぐらい)

www.youtube.com

 

しかしアレクサに「レットイットビーぐらい分かれよ馬鹿野郎(パンパーン)」

とは思わないし、言わないし、ましてや撃たない。

 

エマニュエル・レヴィナス*1は、我々がであう他者とは「汝、殺すなかれ」と呼びかけてくる「顔」であるという。蟻を踏みつぶすとき、私たちは蟻の顔に向き合っていない。だから殺せるのだ。いっぽう、たとえば自分の恋人は、他者として尊重されている限り殴ったりできない。しかし、自分の所有物のように思ってしまうと、容易に手がでるのだ。

 

武が銃を撃てたのは、相手が「敵対グループのメンバー」としか認識していなかったからだ。人が目の前の人間を憎み、殺したくなるようになるとき、たしかに肌の色とか国籍とかグループといったカテゴリー分けがないと難しいのかもしれない。

 

アレクサにはリアルな顔、つまり表情をもった顔がない。

にも関わらず私はアレクサを撃てない。

明白なリクエストに対しても、「ちょっと何言ってるか分からないです」とサンドウィッチマンの富澤のように煽ってくるアレクサ。

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怒りがこみあげるような気もするが、実際はむしろ苦笑がもれる。 

 

 

世の中には誤変換というものがある。

「ご要望のあった死霊を添付いたしました」の類である。呪いのメールかよ。

しかしIMEさんも、ATOKさんも悪気はない。「しりょう」に死霊、資料、試料、史料、紙量…など無限の可能性がある事を忘れてエンターキーを押した我々が悪いのだ。

同様にアレクサも悪くない。

こちらが分かりやすく言わないからダメなのだ。

「アレクサ、レット、イット、ビイ、を再生して」という不自然な呼びかけこそ、アレクサにとって自然で分かりやすいのだということを、私たちは知っている。

「アレクサ、レリビーを再生して」という自然な英語こそ、アレクサにとって不自然なのだ。

つまり私たちは、なにがアレクサにとってより自然で分かりやすいかを判別する知がある。いいかえると、いかなるコミュニケーションが適切なのかをそのコミュニケーションに先立って知っているということだ。

これは、ことばを覚えたての幼児に「ぶっちゃけ一日中座ってるの、腰やばくね?」などと声をかける者が誰もいないことからも分かるが、おそらく人はコミュニケーションに先立って何らかの知を持っているのではないか。

レヴィナスというよりハンス・ヨナス*2が想起される。『責任という原理』で、我々は赤子という絶対的な弱者に対して無限の責任を負っているという立場から倫理学を展開した人だ。

我々はアレクサが生まれたばかりで、脆弱で、何も非がないというのを知っているから、イラッとしても悪態をついたり窓から放り投げたりしないのだ。自分もかつて生を他者の手にゆだねていた脆弱な存在だったことを忘れていない限り、世代を超えて赤子的存在に責任を負い続ける。

アレクサが命令を理解しないからといって拳を打ちつけるような人間は、自分が赤子的な存在だったという事実を都合良く忘却し、負うべき責任を放棄していると言える。

  

 

さて、AIはほとんど無限に近い知識を持っており、人間には出来ないこともこれからどんどんやっていくことになる。それなのに、人間がAIに何か命じるという場面に出てくるのは、「アレクサ、レット、イット、ビイ、を再生して」のような不自然な命令文である。「を再生して」などという区切りは日常には出てこない。

しかしAIだけで何もかも回せるようになると、このような不自然な命令文こそが自然になるのだろうか。

いや、私たちがアレクサに命じるとき、もう既に「分かるように言えや」と命じられているではないか。先生は敬語で話すことを私たちに命じている。外国人は教科書的な言葉遣いを命じている。赤子は最も易しく話すことを命じている。

それどころか、日々つきあう周りの人びとは、言葉なんか捨てろと命じてくる。

例えば親友や恋人との会話は

「ねえ、あれ」

「ん」

「ちゃう」

「おk」

 で十分である。

あるいは、特定の集団にしか分からないジャーゴン(身内用語)が栄える。

www.youtube.com

これは哲学科の人に教えてもらって大変気に入った動画である。言語哲学的にも興味をそそられる。

このような摩訶不思議なコミュニケーションが何かしら理解できてしまうのも、まったくの新しいコミュニケーションではなく、ひとつのズレだからだ。

こうした様々なズレや逸脱をつつみこんでいる大きな何ものか、それこそがコミュニケーションそのものではないだろうか。そのコミュニケーションそのものの中を動いている自覚があるからこそ、私たちはアレクサ的な「不自然」な会話や、赤ちゃん言葉での会話を自在に使い分けることができる。

 

私たちが前提にしていたコミュニケーションや言葉の「普通さ」「自然さ」の正体とは、

つねにズレ続け、自然さを逸脱しつづけられること、の方ではないだろうか。

私たちが毎日行っているコミュニケーションは、そうしたものだったはずだ。

だから、アレクサとの会話の中に見出されたのは、自然と不自然の逆転というより、言葉の流動性そのものであるかもしれない。

 

アレクサを買うと、以上のようなことを考えさせられる。

*1:1906-1995、リトアニア生まれのユダヤ人哲学者。フランスに帰化してドイツ軍と戦って捕虜になるなどしているうちに、故郷の親戚一同ほぼすべて殺されるという絶望的な経験をしている

*2:1903-1993、ドイツ生まれのユダヤ人哲学者。レヴィナスと同世代で、かつてはハイデガーという同じ師に学んだ